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== 経歴 ==
幼少から、[[昌平坂学問所]]で漢学を、[[開成所]]で数学と漢学を学び、神童と呼ばれる。16歳で静岡藩学問所英学世話掛から英語五等教授に就任する。その後、藩の名で上京し[[大学南校]]に入学。在学中、イギリス留学を命じられるも、アメリカ留学を願い、大学南校第1回国費留学生となる。留学先のハーバード法律学校(現:[[ハーバード大学]])では「キリスト教徒であること」という必須条件に意を述べ、入学許可を得る。卒業して帰国後に文部省で勤め、留学生監督として再度渡米している。帰国し、退職後は司法省附属[[代言人]]や[[貴族院議員 (日本)|貴族院]]議員として活躍。[[横浜税関]]長、[[大蔵省]]主税局長、枢密院顧問官などの要職を歴任した。東京弁護士会会長も務めた。また、[[1904年]]の[[第一次日韓協約]]では日本政府から派遣されて韓国の財政顧問を務めた。[[1920年]]に[[ジュネーヴ]]で開かれた[[国際連盟]]第1回総会で目賀田は、[[石井菊次郎]]、[[林権助]]とともに[[国連大使]]の一人として英、仏、伊と並ぶ理事国日本を代表した。
 
[[勝海舟]]の三女・逸子は、目賀田に嫁いだ。その関係から海舟は、[[専修学校]](現:[[専修大学]])に『[[律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風]]』(訳「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈り、学生を激励した実録も有名である。