「永嘉の乱」の版間の差分

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八王の乱で中央が乱れると同時に、各地では連年の飢饉にも襲われて大量の流氓と呼ばれる避難民が現れた<ref name="中華の崩壊117">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117</ref>。その中でも特に問題だったのは八王の乱が起こる直前から既に問題を起こしていた氐族や羌族で、特に前者の族長[[斉万年]]に至っては[[296年]]に西晋に対し反乱を起こす有様だった<ref name="中華の崩壊117"/>。当時は八王の乱が起こっていたが賈氏の下で比較的に中央も安定していた時期に当たったため、乱自体は[[299年]]までに鎮定された<ref name="中華の崩壊117"/>。ところがこの地域で連年の飢饉により発生した流民を纏め上げた蛮族の[[李特]]が現在の[[四川省]]に入って[[成都]]を陥れ、自立してしまった<ref name="中華の崩壊117"/>。李特は西晋の討伐を受けて殺されたが、その遺児[[李雄]]は勢力を盛り返して[[304年]]に成都王に、[[306年]]には皇帝を僭称して大成([[成漢]])を建国するに至った<ref name="中華の崩壊117"/>。
 
また山西省を中心に移住していた匈奴の酋長である[[劉淵]]は、八王の乱では成都王[[司馬穎]]の旗下にあったが、[[幽州]][[都督]][[王浚]]・[[并州]][[刺史]][[司馬騰]]討伐を目的に許されて帰郷すると、部族を纏め上げて[[304年]]に晋朝からの独立を宣言し、左国城([[山西省]][[離石区|離石県]])に拠り[[単于|大単于]]となり、漢より賜った劉姓にちなんで漢王と号した(後の[[前趙]])<ref name="中華の崩壊61"/>。劉淵は一族の[[劉聡]]や[[劉曜]]、重臣の[[王弥]]や[[石勒]]らを各地の郡県に封じ、[[309年]]には都を平陽(現在の山西省[[臨汾県]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}})に定めた<ref name="中華の崩壊61"/>。劉淵は山西省南部に勢力を伸張し、[[河南省]]や[[山東省]]など華北各地を席巻し<ref name="中華の崩壊58"/>、南下の形勢を示した<ref name="中華の崩壊61"/>。劉淵は[[310年]]に死去し<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="中華の崩壊61"/>、一族内紛の末に兄[[劉和]]を殺した[[劉聡]]が漢皇帝として即位した<ref name="中華の崩壊61"/><ref name="新十八史略60">駒田『新十八史略4』、P60</ref>。
 
=== 洛陽陥落 ===