「ゴルディアヌス2世」の版間の差分

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母親は哲学者[[ヘロデ・アッティクス]]の娘であったという。妹にのちの皇帝[[ゴルディアヌス3世]]の母親[[アントニア・ゴルディアナ]]がいる。
 
ゴルディアヌス2世の早期の記録は記述のみで史的確証がない。彼の死後、ゴルディアヌスを懐かしく思う[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員たちがよい部分のみ残したからで、信用性に足りるとは必ずしも言えない。それによると、[[エラガバルス]]の治世の時に[[クァエストル]]をめ、[[アレクサンデル・セウェルス]]の治世では[[プラエトル]]と補欠[[執政官]]をめたらしい。[[237年]]から父親の命で[[アフリカ属州]]の[[属州総督|総督]]となった。
 
[[235年]][[低地ゲルマニア]]属州にてアレクサンデル・セウェルスが殺害される。首謀者は[[マクシミヌス・トラクス]]で、元老院の消極的な態度にもかかわらずすぐに[[ローマ軍団|軍団]]により皇帝に擁立された。そして地方の圧力を受けた父親ゴルディアヌス1世は238年マクシミヌスに兵を挙げ、[[3月22日]]元老院より[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の称号を受ける。登位の際に高齢のゴルディアヌス1世は息子であるゴルディアヌス2世を共同皇帝として指名、同時に帝位に就いた。マクシミヌスが不人気であったために元老院や属州の多くから支持はされたという。