「フェルディナンド・デ・メディチ (大公子)」の版間の差分

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フェルディナンドの秘めたる情事は、ジャン・ガストーネと同じく、ほとんどの相手が男性であった。プラトリーノのヴィラは男性の愛人と密会する場でもあった。[[1696年]]に[[ヴェネツィア]]のカーニヴァルを訪れたと推測されており、彼はそこで[[梅毒]]に感染したといわれる。
 
[[1689年]]、フェルディナンドは渋々妻[[ヴィオランテ・ベアトリーチェ|ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ]]([[バイエルン選帝侯]][[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|フェルディナント・マリア]]と妃[[ヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・サヴォイエン|アーデルハイト]]の子)を娶った。ヴィオランテは夫と同じく音楽好きで、フェルディナンドを愛していたが、結婚生活は不幸で子供もなかった。コジモ3世は、子供たち3人がそれぞれ配偶者との間に子ができないという、将来の[[メディチ家]]断絶の危機に、[[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ|アンナ・マリーア]]をジャン・ガストーネの次期大公とすべく奔走したが、叶わなかった。
 
1713年、フェルディナンドは梅毒により、父コジモ3世より先に逝った。