「永野修身」の版間の差分

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藤電 (会話 | 投稿記録)
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=== 海軍兵学校長 ===
[[1928年]](昭和3年)12月10日、海軍兵学校校長。兵学校長時代は、[[伊藤整一]]とともに自学自習を骨子とする[[ドルトン・プラン|ダルトン式教育]]を採用、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。永野はダルトン教育を導入することで、これまでの受身一辺倒の兵教育を改め、自主性、積極性、創造性を重視し、個々の生徒が持つ才能や資質、専門性を開花させ、自由に伸ばす方向へと転換させようとした。そのため、生徒達から「永野校長の頭を叩けば,自啓自発の音がする」といわれたという。ダルトン教育の導入は永野が軍令部次長に転じた後に消滅したが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#55期|55期]]([[吉田俊雄]]によれば[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#58期|58期]]から[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#60期|60期]])を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。一方、他律的な型嵌め教育を受けていないために任官先の他の期の士官からは上官に対する意見(提案)が多く、理屈っぽく意見が多いと評判が悪かったという。但し、ダルトン教育を受けた者の中には新たな爆撃術の研究開発を行った[[関衛]]など数々の有能な人材を輩出している。また、大戦中に兵学校長を務めていた[[井上成美]]は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判しており、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から慣例となっていた生徒向けの訓話を行わせなかった。これはすぐ現場で役に立つ即戦力としての海軍士官を育てることが兵学校の最大の任務と考える井上校長と、将来、兵学校の生徒たちが問題や壁にぶつかった時、自ら進んで学習(自学自習)をし、問題を解決できる力(行動力や創造力など)を持った人材を育てることが大切だと考えていた永野の考え方の違いにあった
 
大戦中に兵学校長を務めていた[[井上成美]]は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判しており、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から慣例となっていた生徒向けの訓話を行わせなかった。これは「すぐ現場で役に立つ即戦力としての海軍士官を育てることが兵学校の最大の任務」と考える井上校長と、将来、兵学校の生徒たちが問題や壁にぶつかった時、自らの頭で考え、進んで学習(自学自習)をしながら、問題を解決できる力(行動力や創造力など)を持った人材を育てることが大切だと考えていた永野校長の考え方の違いにあった。
*ちなみに[[海軍反省会]]などの資料には戦前の日本軍の兵教育の問題が書かれているが、戦前の兵教育は教科書の丸暗記を基本とする教育が中心であったため、日本軍の行動はアメリカ軍に簡単に予測されてしまったという。しかも日本軍の指揮官には創造性や[[個性]]がなく、教科書通りの型に嵌った戦法を繰りかえす事が多く、アメリカ軍のように一度失敗した戦法でも見直して対策を練ることはせず、日本軍は何度も同じことを繰り返し犠牲を増やしたとされる。
 
*:ちなみに[[海軍反省会]]などの資料には戦前の日本軍の兵教育の問題が書かれているが、戦前の兵教育は教科書の丸暗記を基本とする教育が中心であったため、日本軍の行動はアメリカ軍に簡単に予測されてしまったという。しかも日本軍の指揮官には創造性や[[個性]]がなく、教科書通りの型に嵌った戦法を繰りかえす事が多く、アメリカ軍のように一度失敗した戦法でも見直して対策を練ることはせず、日本軍は何度も同じことを繰り返し犠牲を増やしたとされる。
 
[[玉川学園]]の[[小原國芳]]とは特に仲がよく、自宅に玉川学園の生徒を呼んでは園遊会などを開いたり、学園視察に度々出かけるなど交流を深めていたという。また、[[自由学園]]の[[羽仁もと子]]などともたびたび日本の教育活動の在り方について意見を交わしている。