「山科勝成」の版間の差分

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== 動向 ==
蒲生家伝来とされる史料「御祐筆日記抄略」によれば、[[天正]]5年(1577年)に「ロルテス」と名乗るローマ人が紹介状を携えて蒲生氏郷に召し抱えを求めてきた。紹介状には、ロルテスは軍人にして兵法はもとより天文・地理も極めて「[[張良]]、[[諸葛亮|孔明]]をも凌ぐ」と記され、氏郷は家老一同との会議においてその可否を諮る。喧々諤々の会議となったが、最終的には扶持を与えて召し抱えることに決まり、ロルテスは小銃や大砲など武器の製作に従事することになり、名も「山科羅久呂左衛門勝成」と改めた<ref name="tsuji">辻(1942)pp.250-262</ref>。
 
以後、勝成は氏郷の麾下で各戦役に参加、[[小牧・長久手の戦い]]における[[峯城]]攻略戦では5番首を挙げた<ref name="tsuji" />。さらに[[加賀野井城]]攻略戦では小山から大砲を操って落城へと追い込み、また逃亡を図る城兵の殲滅にも加わり、ひとりを斬り伏せ、ひとりの首を取った<ref name="tsuji" />。それから7日後、勝成は氏郷の家臣12人と共に武器の買い付けのためローマへ遣わされる。2年半を経て、一行は彼地の「大僧正」より贈られた一巻の書物と、買い入れた鉄砲30挺を携えて帰国。大いに満足した氏郷は、勝成に500石を加増した<ref name="tsuji" />。以降、氏郷は他の者を遣わしながらローマとの通交を続けていく<ref name="tsuji" />。
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#学術的に知られた『蒲生家記』と照合したとき、山科勝成とローマ派遣についての記述だけが浮いた存在である。
#これほど活躍した武将が、まして大砲を操るという極めて珍しい戦法を用いているのに、他の歴史文書に一切記録されていない。
#加賀野井城の攻戦から7日後にはローマへ向けて出立しているのはあまりにも急である。どのような船で、誰の案内で行ったのかも判然としないし、現地の話も全く書かれていない。また、他の大名からの遣欧使節は出発から帰国までに7~9年を要しているのに対し、氏郷からの使節は7年で4往復もしている点も甚だ不可思議である。
#文章全体に時代が新しい語が散りばめられており、寛永19年(1642年)成立の文書であるという点にも疑いを持たざるを得ない。
以上の点から辻は「御祐筆日記抄略」について、蒲生家文書記』にロルテス=山科勝成という架空の存在を付け足して、渡辺による入手から近い時代に書かれたものであるとし、勝成の通称「羅久呂左衛門」も、[[伊達政宗]]から発せられた[[慶長遣欧使節]]の長であった[[支倉常長]]の通称「六郎右衛門」のもじりではないかと推測している<ref name="tsuji" />。また、ローマへの使節については「全くの絵空事」とし、当初その史実性が疑問視されながら、彼地において様々な史料が発見され事実確認に至った慶長遣欧使節とは、派遣元に史料が残されていないという点で事情が大いに異なるとも指摘している<ref name="tsuji" />。
 
「御祐筆日記抄略」を最初に入手した渡辺修二郎は、「氏郷がローマ人を軍人として用いたのは事実であろう」とし、また「当時といえども2年ないし3年でヨーロッパとの往復は全く不可能ではない」としているが、その一方でやはり現地の様子についての報告が全くないことを訝しみ、自身の調査でもローマに氏郷からの使節派遣を裏付ける史料が全く見つからなかったとしており、遣使があったとしても[[フィリピン]]、[[マニラ]]、[[ゴア州|ゴア]]など東南~南アジアへの通商団であって、書物を贈られたローマの「大僧正」もそうした土地における宗教者だったのではないかと推測している<ref name="watanabe" />。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[三浦按針ウィリアム・アダムス]] - [[徳川家康]]によって士分に取り立てられたイングランド人。三浦按針
* [[弥助]] - [[織田信長]]に召し抱えられたとされる元黒人奴隷。