「題名のない音楽会」の版間の差分

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その後、東京12チャンネルの経営難による放送時間短縮(1966年4月より。詳しくは[[日本科学技術振興財団#テレビ放送事業]]を参照)の影響で放送継続が困難になり、スタッフは「司会者・楽団・スタッフはそのままで番組を継続できること」を条件に他局への番組の移籍を検討する。元々、出光興産は「会社がつぶれるまで提供を継続する」方針であり<ref>黛敏郎著「題名のない音楽会」によれば放送困難になった際、出光興産が「せっかく始まった番組を終わらせるのは嫌だ」と言ったから、と書いてある。</ref>、「優良スポンサーつきの番組であり、ぜひ放送したい」と他の在京キー局が一斉に手を挙げたが、最終的にNETテレビ(現・[[テレビ朝日]])が当時専属の交響楽団を持たなかった事が決め手となり<ref>「東京12チャンネルの挑戦」p.161によれば、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]は[[日本フィルハーモニー交響楽団]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]は[[読売日本交響楽団]]との関係が強いことから共に敬遠され、またTBSは元々東京交響楽団との専属契約を切った局であり移籍は論外とされたため、NET以外に選択肢が残らなかったという。</ref>、1966年4月1日に放送がNETに移り『'''題名のない音楽会'''』として再スタートした。なおNETテレビで放送された最初の2本分の番組は、東京12チャンネルが制作したものである。
 
これが日本の放送番組で最初の事例であるかは不明だが、一放送番組が他の放送局に移籍する例は当時としては異例のことであった。なお、日本に限らず、放送番組の他局への移籍は現在でも極めて少ない
 
その後、当番組は[[1968年]][[9月29日]]で一旦終了し、1968年[[10月6日]]から[[1969年]][[6月29日]]までは同枠で『黛敏郎の間奏曲』が放送された。1969年[[7月6日]]から再び放送を開始し、以降は週末のNETテレビ⇒テレビ朝日で特番や緊急時を除き、間断なく放送を続けている。