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[[徳川家康]]は今際の際に金地院[[崇伝]]、南光坊[[天海]]、[[本多正純]]を呼び、次のように遺言したとされる。
{{quotation|[[久能山]]に納め、御法会を江戸[[増上寺]]、靈牌は三州[[大樹寺]]、御周忌終て下野国[[日光山]]へ小堂を營造、京都には[[金地院]]に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。|[[徳川実紀]](台徳院殿御実紀四十二巻)}}
元和2年4月17日([[1616年]]6月1日)、家康は[[駿府城]]で死去。
しかしその後も各地の[[徳川氏|徳川]]・[[松平氏|松平]]一門大名家、また3代将軍[[徳川家光]]による諸大名への造営の進言もあって[[譜代大名]]や徳川家と縁戚関係がある[[外様大名]]家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている<ref>[http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/150125/lif15012511170011-n1.html 地形把握も兼ねていた家康のタカ狩り 遷霊行列は中原と府中で「御殿」に宿泊]産経新聞、2015.1.25</ref>)。
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