「纒向遺跡」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yasohati (会話 | 投稿記録)
m 墨書にリンク追加
26行目:
纒向遺跡は[[1937年]]([[昭和]]12年)に[[土井実]]によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である<ref name="ishino" />。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な[[遺跡]]群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった<ref>[[松本俊吉]]が『大三輪町史』([[1959年]])に、[[小島俊次]]が『奈良県の考古学』([[1965年]])に要約を記載した程度であった。</ref>。しかし、[[炭鉱]]離職者の雇用促進のための県営住宅建設および[[小学校]]建設計画が持ち上がり、それを契機に[[1971年]](昭和46年)より[[橿原考古学研究所]]によって事前調査が行われることとなった。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出され、地元の万葉研究者である[[吉岡義信]]らが『[[万葉集]]』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった<ref name="ishino" />。川跡からは、吉備の[[楯築遺跡]]や[[都月坂遺跡]]で出土している[[特殊器台]]が出土した。その後も、橿原考古学研究所の[[石野博信]]と[[関川尚功]]を中心に発掘調査がなされ、様々な[[遺構]]や出土品が広範囲にわたり確認された。[[1977年]](昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から[[桜井市]]教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。[[2008年]](平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない<ref name="ishino" />。
 
[[2009年]](平成21年)にはいくつかの[[建物]]を検出し、<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010852_00000 NHKスペシャル “邪馬台国”を掘る - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>纒向遺跡は[[柵]]や[[砦]]で囲まれた[[都市]]の一部らしいことが明らかになってきた。
 
纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から[[モモ|桃]]のタネ約2,000個が見つかったと[[2010年]](平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡から[[マダイ]]、[[アジ]]、[[サバ]]、[[コイ]]など6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物も[[イノシシ]]や[[シカ]]、[[カモ]]の骨など千数百点が見つかったと発表した。これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。