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=== サブウェイ・シリーズ ===
{{by|1996年}}シーズン途中から[[ボビー・バレンタイン]]が監督に就任。{{by|1997年}}に7年ぶりに勝ち越し。{{by|1998年}}前々年に同一リーグで[[ノーヒット・ノーラン]]達成し日米野球第2戦で同時先発出場した[[ソウルオリンピック野球日本代表]]野茂・[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・イタリア代表]]にもなる[[マイク・ピアザ]]のドジャース多国籍バッテリーを獲得、野茂退団し吉井残留しし{{by|1999年}}には[[シンシナティ・レッズ]]との相手本拠地[[リバーフロント・スタジアム]]での[[メジャーリーグベースボールワンゲームプレイオフ]]5-0で圧勝しワイルドカードでポストシーズン進出を果たし[[1999年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|地区シリーズ]]で[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]に破り[[2000年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグ優勝決定戦]]で[[アトランタ・ブレーブス]]に敗退、{{by|2000年}}も前年に続きワイルドカードで[[プレーオフ]]へ進出。順当に勝ち、[[2000年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]へ進出したが、相手は同じニューヨークの球団・ヤンキースだった。[[インターリーグ]]においてメッツ対ヤンキースの対戦カードをサブウェイ・シリーズと呼ぶが、これがワールドシリーズでは初めてのサブウェイ・シリーズ<ref>ただし、ドジャース、ジャイアンツがニューヨークに本拠地を置いていた当時のヤンキース対ドジャースまたはジャイアンツのワールドシリーズは「サブウェイ・シリーズ」と呼ばれていたことはあった。</ref>となった。メッツは全くヤンキースに歯が立たず、敗退した。なお、このシリーズではメッツの主砲ピアザの折れたバットがヤンキースの主戦投手、[[ロジャー・クレメンス]]の近くに飛び、クレメンスが拾ったバットをピアザの方に投げたことで両軍騒然となり、以後もこの両者には遺恨が残った。
 
その後{{by|2001年}}には[[新庄剛志]]がFAで移籍し、守備力は強化されたが、翌{{by|2002年}}に新庄は放出され(新庄はその翌年の{{by|2003年}}に1年のみ復帰)、逆に[[モー・ボーン]]、[[ロベルト・アロマー]]、[[ジェロミー・バーニッツ]]、[[ロジャー・セデーニョ]]ら大物を続々と補強したが、75勝86敗と6年ぶりに負け越した。大リーグで2番目の年俸総額が揶揄され「1億2,000万ドルの間違い」と酷評された<ref>『月刊メジャーリーグ』 43項、2004年3月号 雑誌08625-3</ref>。{{by|2004年}}には前年に10代の若さでメジャーデビューした[[ホセ・レイエス]]を二塁へコンバートして[[松井稼頭央]]を獲得したが活躍できずに終わり{{by|2006年}}シーズン途中に[[コロラド・ロッキーズ]]へ放出された。また2004年シーズン途中に[[スコット・カズミアー]]をトレードで放出したが、その直後にメジャーデビューを果たし[[タンパベイ・レイズ]]のエースとなってしまった。一方で[[デビッド・ライト]]、[[ホセ・レイエス]]の三遊間コンビが頭角を現していった。