「ガンバ大阪」の版間の差分

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松下初代監督[[水口洋次]]の同い年の親友で松下監督をJSL閉幕時点でも務めた[[釜本邦茂]]が引き続きJ参戦に向けて指揮を執った。[[永島昭浩]]、[[礒貝洋光]]、[[本並健治]]、[[エジバウド・マルティンス・ダ・フォンセカ|エジバウド]]などが所属していた。[[1992年のJリーグカップ]]は8位に終わったが、[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]はベスト8の成績。しかし、1993年1月にエジバウドがシーズン開幕を待たずして交通事故で他界した。
 
[[1993年Jリーグ開幕節]]([[5月16日]])、[[万博記念競技場]]で[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]と対戦し、[[和田昌裕]]の得点で1 - 0で勝利したが、1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。[[1993年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]ではベスト4へ進出。[[帝京中学校・高等学校|帝京高等学校]]時代の2年生次で出場した[[第70回全国高等学校サッカー選手権大会|第70回全国高校サッカー選手権]]では7得点を挙げ大会得点王に輝き、同校を優勝に導いた大型ストライカーとして注目を集めた[[松波正信]]は卒業の93年開幕したばかりのJリーグの4クラブ([[名古屋グランパスエイト]]、[[鹿島アントラーズ]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]])から正式オファーがあり、ガンバに入団。同年5月16日の開幕節ではベンチ入りも逃したが6月9日、サントリー第11節[[サンフレッチェ広島]]戦で決めたJ初ゴールがJリーグ通算100ゴールとなった。以後、初年度から出場機会を掴みリーグ戦29試合出場7得点を記録、7得点のうち10代最後の誕生日の前日[[11月20日]]、NICOSシリーズ第14節[[市原緑地運動公園臨海競技場]]で当時高卒ルーキーだった松波はキックオフから延長までフルタイム出場し[[ハットトリック]]を達成、3点目は延長前半のサドンデス([[Vゴール]])
 
[[1994年のJリーグ|1994年]]、釜本体制2年目。永島が[[清水エスパルス]]に移籍した一方、前年からの[[セルゲイ・アレイニコフ|アレイニコフ]]に加え、[[アフリク・ツベイバ|ツベイバ]]や[[オレグ・プロタソフ|プロタソフ]]といった元[[サッカーソビエト連邦代表|ソ連代表]]勢が加入した。しかし、守備の要となる筈だったツベイバがケガで離脱し、1stステージは7勝15敗で12チーム中10位。2ndステージはツベイバが復帰したが、7連敗を喫すなど最下位争いの常連となり、[[名古屋グランパスエイト]]・浦和と共にJリーグのお荷物と扱われるようになった<ref>サッカーマガジンJリーグ名古屋グランパス優勝号 2011年 1/1号、p.64。</ref>。最終的に8勝14敗で1stステージ同様の10位の成績。カップ戦は[[1994年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]・[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]共にベスト4で敗退。シーズン終了後、成績不振により釜本が監督を解任された。