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== 歴史 ==
現存の大聖堂<ref> Notre-Dame Cathedral, the most famous cathedral in Paris, France [http://www.colognehq.com/ Clara D. Lepore] </ref>は3代目で、初代が完成したのは[[4世紀]]のことであった[[正方形]]の建物で、最も古い聖堂として知られていた。
 
2代目は[[818年]]に完成し、[[12世紀]]後半に[[東方三博士]]の[[聖遺物]]がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。[[1248年]]の[[4月30日]]に火災により焼失した。3代目は2代目が焼失した年である[[1248年]]に建設がはじまった。しかし、[[16世紀]]に入って[[宗教改革]]を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは[[19世紀]]に入ってからだった。
 
[[ナポレオン戦争]]の影響によりドイツで[[ナショナリズム]]が高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築では[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック・リヴァイヴァル]]の潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、[[1842年]]に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した[[1880年]]のことであり、高さが157mの大聖堂は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントン記念塔]](高さ169m)が完成する[[1884年]]まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称される[[鐘]]が南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に接収され、溶かされたのちに武器として用いられた。
 
大聖堂は[[第二次世界大戦]]時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたものの全体は崩れなかったため、[[1956年]]まで復旧工事が行われ、元の状態に復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガで復旧された部分が残っていたが、[[1990年]]代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。また、修復の一環として破損した[[ステンドグラス]]の一部は[[ゲルハルト・リヒター]]によって近代的な[[モザイク]]風の[[市松模様]]の物に置き換わったのだが、これについては未だに賛否両論がある。
 
[[1996年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)に登録されたものの、周辺の高層建築物計画による景観破壊の危機にさらされた。[[2004年]]には[[世界遺産の一覧 (危機遺産リスト)|危機遺産]]に指定されたが、大聖堂の周囲に高さ規制を敷くなど市当局の懸命な努力により[[2006年]]を以って解除された。