「デポルティーボ・ラ・コルーニャ」の版間の差分

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1993-94シーズンも歴史的なシーズンとなり、シーズンのほとんどを順位表の一番上に位置して最終節を迎えた。中位に低迷していたバレンシアCFとの対戦となった最終節に勝利すれば自動的に優勝が決まるはずであったが、試合終了間際に[[ミロスラヴ・ジュキッチ]]がPKを外すなどして引き分けに終わり、FCバルセロナに逆転を許した。なお、勝ち点1差から最終節に大逆転したFCバルセロナは、バレンシアCFの選手に勝利ボーナスを提示したとして非難された。リーグ戦初優勝は逃したものの、リアーニョは2シーズン連続でサモラ賞を受賞し、初めて出場した欧州カップ戦(UEFAカップ)では[[オールボーBK]]や[[アストン・ヴィラFC]]を倒してベスト16となったため、サポーターは1993-94シーズンが素晴らしいシーズンであったと認識している。1994-95シーズン開幕当初、イグレシアス監督は同シーズン終了後の退任を示唆していたが、2シーズン連続でリーグ戦2位という好成績を残した。同シーズンのUEFAカップでは再びドイツの[[ボルシア・ドルトムント]]に敗北を喫したが、コパ・デル・レイでは快進撃を続けてクラブ史上初めて決勝に進出した。[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われたバレンシアCFとの決勝は、1-1で迎えた83分に暴風雨の影響で中断され、3日後に83分から開始されることとなったが、この試合で[[アルフレド・サンタエレーナ]]がヘディングシュートを決めてクラブ初のメジャータイトルを獲得した。
 
1998年夏に[[ハビエル・イルレタ]]監督が就任すると、チームはスペイン屈指の戦術家であるイルレタ監督によって徹底的に鍛え上げられ、1999-2000シーズンには悲願の[[リーガ・エスパニョーラ]]制覇を達成。このシーズンのチームは[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の[[ジャウマ・フェイトサ・ジアス|ジャウミーニャ]]と[[マウロ・シルバ|マウロ・シルヴァ]]、スペイン代表の[[フランシスコ・ハビエル・ゴンサレス・ペレス|フラン]]、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の[[ロイ・マカーイ]]などが主力選手であり、FCバルセロナとバレンシアCFに勝ち点5差を付けて優勝した。[[ア・コルーニャ]]は人口約20万人程度の町であり、リーガを制したことのあるクラブの本拠地の中でもっとも人口の少ない町であった。1992-93シーズンから2003-04シーズンまでの12シーズンの間に、リーグ戦で4度2位となり、さらに4度3位となった。そして[[UEFAチャンピオンズリーグ]]には2000-01シーズンの初出場から5シーズン連続で出場し、2003-04シーズンには準決勝に到達した。イングランドの[[アーセナルFC]]や[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]、イタリアの[[ユヴェントスFC]]や[[ACミラン]]、ドイツの[[バイエルン・ミュンヘン]]など、多くの強豪クラブがデポルティーボに敗れているが、特にユヴェントスFCとは短期間に頻繁に対戦して数々の名勝負を繰り広げ、対戦成績は3勝4分1敗と勝ち越している。この黄金期のチームは「'''Super Depor(スーペル・デポル)'''(Super Depor)と呼ばれた。
 
=== 黄金時代の終焉から低迷期へ ===
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公式の紋章にはSala Calvet Gymnasiumの旗を腰に巻きつけた騎士が描かれている。中央の王冠はスペイン王室を表現し、斜めに走る青色の縦縞はガリシアのクラブの証(ガリシア州旗のデザイン)である。
 
1912年までの期間を除き、一貫して青色と白色の縦縞のユニフォームを着用している。セカンドユニフォームとサードユニフォームの色はシーズンごとに変更される。現在のスポンサーはエストレーリャ・ガリシア(ガリシア州政府ビール)である。[[ロット (企業)|ロット]]がユニフォームを製造している。
 
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