「パラワン島」の版間の差分

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[[Image:Ph locator map palawan.png|thumb|200px|左にある細長い島がパラワン島]]
'''パラワン島'''( - とう、Palawan Island)は[[フィリピン]]の南西部にある[[島]]。北西を[[南シナ海]]、南東を[[スールー海]]に面し、[[ミンドロ島]]と[[ボルネオ島]]([[マレーシア]])の間にまたがる、南北の長さ397km・東西の幅の平均約40kmと極端に長細い島である。[[ルソン島]]、[[ミンダナオ島]]、[[サマール島]]、[[ネグロス島]]に次ぐフィリピンで5番目に大きな面積(11,785平方km)の島で、[[パラワン州]]に属す。主な都市は、島の中央部にある[[プエルト・プリンセサ]]。
 
== 地理・観光地 ==
[[Image:Coron Island, Palawan.jpg|200px|thumb|コロン島]]
[[熱帯雨林]]・密林に覆われた高い山岳地帯が島の大半を占め、南部のマンタリンガハン山(標高2,086m)が最高峰である。「'''フィリピン最後のフロンティア'''」などとも呼ばれる秘境で、[[生態系]]がよく残っており、[[エコツーリズム]]の対象ともなっている。[[プエルト・プリンセサ地底河川国立公園]]や[[トゥバタハ岩礁海中公園]]が[[世界遺産]]に登録されている。
 
南北に長いパラワン島の周囲には無数の小島がある。島の北西にはブスアンガ島、[[クリオン島]]、[[コロン島]]などで構成される[[カラミアン諸島]](Calamian)があり、フィリピン屈指の良好な漁場として、ダイビングスポットとして(周囲は[[太平洋戦争]]中の[[日本軍]]の沈没船が多い)、また高級[[リゾート]]として知られている。
 
島北部の町、[[エルニド]]は、高く切り立った[[大理石]]でできた数十の島々の景観と、美しい白砂のビーチで知られており、周囲に点在するリゾート・アイランドへの発着港でもある。これらのリゾートは島一つをひとつのリゾート施設が独占するという贅沢な造りのもので、隠れ家的なリゾートを求める観光客に大変人気がある。
 
その他、ドゥランガン島はパラワン島の西端に接しており、[[バラバク島]]は南端に接してボルネオ島とは[[バラバク海峡]]で隔てられている。
 
== 住民 ==
「フィリピン最後のフロンティア」という言葉には「[[開拓地]]」という意味合いもある。パラワン島には[[20世紀]]はじめまで海岸部を除き、南から順にパラワン人、タグバヌア人、バタク人といった[[先住民]]が住んでおり、[[焼畑]][[農業]](バタク人は[[狩猟]]など)を営んでいた。
 
[[第二次世界大戦]]後、パラワン島にはフィリピン中部[[ビサヤ諸島]]などから小作農、[[プランテーション]]で働く農園労働者、漁民などが、農地開拓・豊かな漁場・鉱山労働・伐採作業を求めて大量に入植し、大戦直後の5万人ほどの人口は1990年には40万人に激増した。またミンダナオ島西部での[[ムスリム]]([[モロ人]])分離主義者たちの[[内戦]]を避けたムスリムも移住している。
 
こうした急速な入植は、人口過密で土地を持つ者と持たない者との対立が深刻なビサヤ地方の問題を解決するための政策でもあったが、先住民の生活や島の環境との間に摩擦も起こしている。
 
== 産業 ==
パラワン島の主な産業は[[農業]]、[[漁業]]であるが、ほかにリゾートに関係した[[観光]]業(ヨーロッパ人、特に[[ドイツ人]]に人気がある)や、[[シリコン]]鉱山などもある。[[林業]]は重要な産業であったが、1992年以来保護のため禁止されている。またミンダナオ島などを拠点とする過激派、[[アブ・サヤフ]]と見られるグループがパラワン島から観光客を誘拐する事件も2001年に起きており、観光に暗い影を落とした。
 
== 歴史 ==
植民地時代以前、パラワン島にはボルネオ島からフィリピン諸島へ島伝いに航海し移住するマレー系民族が多く立ち寄ったほか、中国やマレーの貿易商人たちも寄航し交易した。中国製の陶磁器があちこちの洞窟などで発見されている。
 
[[12世紀]]、マレー人たちが入植をはじめた。首長に率いられたこれらの入植者らは[[しょうが]]や[[ココナツ]]、[[砂糖]]、[[バナナ]]、[[サツマイモ]]、[[コメ]]などを栽培し、[[ブタ|豚]]や[[ニワトリ]]を育てた。生計の手段は農業、漁業、狩猟などであった。
 
[[16世紀]]のスペイン人の来航後、まず北端のカラミアン諸島がフィリピン植民地の支配下となった。[[17世紀]]初頭にはスペイン人たちは[[クーヨー諸島]]など周囲の島々やパラワン本島北部の[[タイタイ]](Taytay)にも宣教師を送ったが、地元の[[ムスリム]]共同体の抵抗にあった。[[18世紀]]までにスペイン人はタイタイなどの町に教会を建て、[[モロ人]]の攻撃に備えて軍隊で防衛した。[[1749年]]、[[ブルネイ]]・スルタン国はパラワン南部をスペインに割譲した。
 
当初、パラワン地域(当時はパラグア Paragua とも呼ばれた)は北部のタイタイに州都を置くカラミアン州のみで支配していたが、後に三分割された。タイタイを州都として北部を支配するカスティーリャ州(Castilla)、プエルト・プリンセサを州都とし南部を支配するアストゥリアス州(Asturias)、プリンシペ・アルフォンソ(Principe Alfonso)を州都とする本島南端のバラバック諸島州であった。
 
[[1898年]]の[[フィリピン独立革命]]でスペイン人支配が終わると、[[アメリカ合衆国]]による支配が始まった。1903年に州の境界は変更され、パラワン州に再編されプエルト・プリンセサが州都となった。学校建設、農業の革新、住民の集住などの政策がアメリカ支配下で行われた。
 
第二次世界大戦では[[日本軍]]がパラワン島を占領したが、[[1944年]]ごろから連合軍の攻勢で多数の軍艦・輸送船が沈められるなど苦境に陥った。この時期、[[1944年]][[12月14日]]、日本軍は連合軍上陸を前に、プエルト・プリンセサにいた150人ほどの捕虜を塹壕に入れ、その上からガソリンを流し火を放った。塹壕を出て野山へ逃げようとしたものは射殺されたが、なお11人ほどが逃げ延びた。翌45年に起こった、ルソン島中部カバナトゥアン収容所からの連合軍捕虜脱走を描いた2005年の映画『ザ・グレート・レイド』のオープニングはこの事件がオープニングとなっている。
 
第二次大戦後はフィリピン中部からの移住者による開拓で人口が激増し、後には欧米人向けのリゾートも多く成立した。2001年5月には[[アブ・サヤフ]]と思われる集団により、プエルト・プリンセサ郊外のホンダ湾にあるドス・パルマス・リゾートから20人が拉致される事件が起き、米軍に支援された大規模な救出作戦が行われた。この事件後、パラワン島の警備は厳重になり、同種の事件は起きていない。
 
== 関連項目 ==
*[[フィリピンの島の一覧]]
*[[水曜スペシャル]](1982年6月9日放送「[[川口浩 (俳優)|川口浩]][[川口浩探検隊|探検隊シリーズ]]」の「謎の原始猿人バーゴンは実在した!パラワン島奥地絶壁洞穴に黒い野人を追え!」の舞台となった。)
 
== 外部リンク ==
* [http://www.premium-philippines.com/ プレミアム・リゾート・アイランド フィリピン] {{ja icon}} フィリピン政府観光省
* [http://www.histanth.tsukuba.ac.jp/~minzoku/pub/31/y31seki.html 関恒樹『フィリピン・フロンティアにおける資源をめぐる「日常の政治学」-移民社会の動態研究のための覚え書き-』]
 
{{フィリピンの地方行政区画}}
{{デフォルトソート:はらわんとう}}
[[Category:パラワン州]]
[[Category:スールー海]]
[[Category:パラワン州の島]]