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'''サライ'''('''バトゥ・サライ'''、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray) は、[[13世紀]]から[[15世紀]]にかけて[[キプチャク草原]]を支配した[[モンゴル]]遊牧政権、[[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)の[[首都]]だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。
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都市の名は[[ペルシャ語]]で館・宮殿・オアシス・故郷などを意味する[[サライ|サラーイ]](sarā(i))から来ている。漢字では「薩来」と表記される。
 
== 位置 ==
[[ファイル:Golden Horde 1389.svg|right|300px|thumb|1389年、[[ティムール]]との戦い以前のジョチ・ウルス。星印が首都[[サライ (都市)|サライ]](新サライ)]]
サライの街は[[カスピ海]]の北の平原地帯、[[アフトゥバ川]]の東岸にあった。この川は[[ヴォルガ川]]最下流の[[分流]]で、ヴォルガから東に分かれ、537km並行しながらヴォルガ・デルタを形成しつつ[[カスピ海]]に流れる川である。サライの遺跡は現在の[[ロシア連邦]][[アストラハン州]]の州都[[アストラハン]]から120km北に位置し、アストラハン州ハラバリ地区(ハラバリンスキー・[[ラヨン]]、Kharabalinsky)のセリトリャンノイェ村(Selitryannoye)付近にある。
 
== 歴史 ==
[[ファイル:Ghengisid's palace tile decor detail.jpg|thumb|300px|バトゥ・サライから出土した宮殿の装飾]]
サライの街を建設し都と定めたのは[[モンゴル帝国]]の西方遠征軍の司令官・[[バトゥ]]であり、[[モンゴルのルーシ侵攻|ルーシ侵攻]]や[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド侵攻]]を進めていたさなかに[[オゴデイ]]・ハーンの死の知らせを聞いて東欧から引き返し、[[1243年]]ごろこの地に自立政権を築いた。
<!--ルーシ(ロシア・ウクライナ)諸国はジョチ・ウルスの攻撃に打撃を受け、その支配下に入ることとなった。-->
 
ジョチ家第5代当主の[[ベルケ]](在位[[1257年]] - [[1266年]])は、ヴォルガ川水系のさらに上流に'''新サライ'''('''ベルケ・サライ'''、 Sarai Berke、 New Sarai、 Sarai-al-Jadid)を建設したとされるが、その存在には疑問もある。新サライとされる遺跡は同じくアフトゥバ川沿岸の[[ツァーレフ]](Tsarev)村にあり、[[ヴォルゴグラード]]の東約85kmの位置である。
 
ジョチ・ウルスの支配層は[[イスラム教]]を受け入れるようになったが、住民の信教には寛容であり、様々な宗教施設が建設された。新サライの時期の[[1261年]]、[[正教会|正教]]の[[主教]]たちがサライに[[教会]]を建設したが、[[大オルダ]]<ref>ジョチ家当主の政権で、一族の諸政権を束ねた中央政権(1243年 - 1502年)。</ref>の分裂が進む[[1454年]]に[[モスクワ]]近郊に移り、クルティツィ(Krutitsy)修道院を築いた。[[イブン=バットゥータ]]は[[14世紀]]前半にジョチ・ウルスとその首都サライ(おそらく新サライ)を訪れ、その壮麗さと広大さ、人口の多さと他民族ぶりに驚き、アラブ・ペルシャ・ロシア・ギリシア・イタリア諸都市など各地からの商人でにぎわうさまや、[[キリスト教]]や[[イスラム教]]の広がりを伝えている。[[ウズベク・ハン]](在位[[1312年]] - [[1340年]])の時代にはサライには西洋やイスラムの影響を受けた壮麗な建築物が建設され、ジョチ・ウルスとともに全盛期を迎えた。[[モスクワ]]や[[トヴェリ]]などルーシ諸公は度々サライを訪れて貢納を行い、ジョチ・ウルスへの臣従を誓った。ルーシ諸国は[[モンゴルのルーシ侵攻]]以後、ジョチ・ウルスへの服従とサライへの貢納を強制されていた。15世紀末まで200年以上にわたって続くモンゴルによる支配をロシア史では「[[タタールのくびき]]」と呼ぶ。
 
新旧のサライのほか、ジョチ家第12代当主[[ジャーニー・ベク]](在位[[1342年]] - [[1357年]])は[[カザフスタン]]最西部の[[アティラウ州]]周辺に遷都し、'''{{仮リンク|サライ・チク|en|Saray-Jük}}'''(小サライ)という都市を築いている<ref>http://www.littera.waseda.ac.jp/faculty/akasaka/zousho/bkkki12.html</ref>。後の[[ノガイ・オルダ]]はこのサライ・チクを首都にしている。
 
バトゥ・サライ(旧サライ)やベルケ・サライ(新サライ)はたびたび破壊されている。[[ティムール]]は[[1395年]]、征服途上でサライ(おそらく新サライ)を破壊した。[[クリミア・ハン国]]の[[メングリ1世ギレイ]]は[[1502年]]にサライ(おそらく新サライ)を破壊し、大オルダを滅ぼした。サライの最後の破壊は[[1556年]]、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]が[[アストラハン・ハン国]]を征服した後であった。
 
[[1623年]]から[[1624年]]にかけて、商人フェドット・アファナシェヴィッチ・コトフ(Fedot Afanasyevich Kotov)はペルシャへ旅し、途中通ったヴォルガ下流について次のように述べている。
<blockquote>
「ここ、アフトゥバ川にかつて[[ジョチ・ウルス|黄金のオルド]]が建っていた。ハンの宮廷、宮殿、モスクは全て石造りであった。しかし今、これらの建物は崩壊し、残った石は資材としてアストラハンに運ばれている。」
</blockquote>
これはおそらく、ベルケ・サライ(新サライ)跡地についての記述であろう。
 
== 参考文献・脚注 ==
*イブン・バットゥータ 『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』第4巻 [[家島彦一]]訳、[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉,1999年,ISBN 978-4582806595
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* http://www.saray-al-mahrusa.ru/
 
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[[Category:歴史上の都市]]
[[Category:モンゴル帝国]]
[[Category:ロシアの歴史]]
[[Category:ジョチ・ウルス]]
[[Category:ロシアの考古遺跡]]
[[Category:古都]]
[[Category:アストラハン州]]