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'''制限主権論'''(せいげんしゅけんろん)とは、[[1968年]]に[[ソビエト連邦]]が[[チェコスロバキア]]に対する軍事介入([[プラハの春]]事件)を正当化するために持ち出した論理であり、「[[社会主義]]陣営全体の利益の為には、そのうち一国の[[主権]]を制限しても構わない」という考え方のことである。この時のソ連指導者[[レオニード・ブレジネフ]]の名前から'''ブレジネフ・ドクトリン'''とも称される。1979年の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンへの侵攻]]でもこの論理が用いられた。
 
やがて[[1980年代]]後半に入り、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が[[新思考外交]]を展開するなか、[[新ベオグラード宣言]]で制限主権論を否定し、東欧各国の自主性を認めた。これは[[フランク・シナトラ]]の曲「[[マイ・ウェイ]]」にちなんで[[シナトラ・ドクトリン]]と言われることもある。これによって東欧諸国はソ連からの干渉を気にせずに共産党体制の改革を進めることができ、やがて体制転換をもたらした[[東欧革命]]につながった。
 
== 関連項目 ==
* [[社会帝国主義]]
 
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[[Category:外交ドクトリン]]
[[Category:ソビエト連邦の国際関係]]
[[Category:冷戦]]
[[Category:地政学]]