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'''大野 操一郎'''(おおの そういちろう、[[1901年]]([[明治]]34年)[[2月25日]] - [[1995年]]([[平成]]7年)[[4月23日]])は、[[日本]]の[[剣道]]家。[[剣道の段級位制|段位]]は[[範士]]九段。[[雅号]]は雲外。[[国士舘大学]]の初代剣道部長
 
== 経歴 ==
[[島根県]]玉造村(現在の松江市)で代々村医をしている家の次男として生まれた。父は福間寛平、母はフサ。後年、大野藤吉・エイの養子となり大野姓となった。
 幼いころから体格に恵まれ、運動神経は抜群であった。[[島根県立松江北高等学校|県立松江中学校]]で芦田長一先生(俳優・芦田伸介の父)に剣道の手解きをうけ、持ち前の高い運動能力で頭角をあらわし、2年生で主将の腕前があると芦田先生にその素質を賞賛された、という。[[1922年]]([[大正]]11年)、[[東京高等師範学校](現在の筑波大学)]体操科(剣道専攻)に入学。[[高野佐三郎]]先生に師事して、さらに剣道の修業を重ねた。卒業後[[兵役]]を経て、
 
 幼いころから体格に恵まれ、運動神経は抜群であった。[[島根県立松江北高等学校|県立松江中学校]]で芦田長一先生(俳優・芦田伸介の父)に剣道の手解きをうけ、持ち前の高い運動能力で頭角をあらわし、2年生で主将の腕前があると芦田先生にその素質を賞賛されたという。[[1922年]]([[大正]]11年)、[[東京高等師範学校](現在の筑波大学)]体操科(剣道専攻)に入学。[[高野佐三郎]]先生に師事して、さらに剣道の修業を重ねた。卒業後[[兵役]]を経て、
[[1927年]](昭和2年)3月、[[熊本県立八代中学校]]に赴任。2年ほどして剣道の腕前を東京で鍛えたほうが良い、というアドバイスを受けたこともあり、
 
[[1922年]]([[大正]]11年)、[[東京高等師範学校]](現在の[[筑波大学]])体操科(剣道専攻)に入学。[[高野佐三郎]]先生に師事して、さらに剣道の修業を重ねた。卒業後[[兵役]]を経て、
 
[[1927年]](昭和2年)3月、[[熊本県立八代中学校]]に赴任。2年ほどして剣道の腕前を東京で鍛えたほうが良いというアドバイスを受けたこともあり、
 
[[1929年]](昭和4年)、[[巣鴨中学校]]の[[教諭]]となる。その勤務のかたわら、東京師範学校研究科(2年)に入学、[[1931年]](昭和6年)に卒業。