「ニコラウス・コペルニクス」の版間の差分

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| death_date = {{death date and age|df=yes|1543|5|24|1473|2|19}}
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'''ニコラウス・コペルニクス'''([[ラテン語]]名: Nicolaus Copernicus、[[ポーランド語]]名: '''ミコワイ・コペルニク''' Mikołaj Kopernik、[[1473年]][[2月19日]] - [[1543年]][[5月24日]])は、[[ポーランド]]出身の[[天文学者]]、[[カトリック教会|カトリック]]司祭である。当時主流だった地球中心説([[天動説]])を覆す太陽中心説([[地動説]])を唱えた。これは[[天文学史]]上最も重要な再発見とされる。太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスの[[アリスタルコス]]である。また、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。
 
コペルニクスはまた、[[教会 (キリスト教)|教会]]では司教座聖堂参事会員([[カノン (宗教)|カノン]])であり、[[知事]]、[[長官]]、[[法学者]]、[[占星術師]]であり、[[医師|医者]]でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。
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=== 司祭として ===
[[1511年]]には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な司祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる<ref>「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p107 ニュートンプレス 2009年5月15日発行</ref><ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p130  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。[[1512年]]にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、[[1515年]]には開催中の[[第5ラテラン公会議]]において改暦が議題に上がる中、[[フォッソンブローネ]]司教であるミデルブルクのパウルがコペルニクスに意見を求めている。[[1516年]]には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった
 
[[1516年]]には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で[[貨幣]]の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、[[1517年]]に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。この論文は[[1519年]]には[[ラテン語]]から[[ドイツ語]]に翻訳され、[[1522年]]には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。
 
しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在する[[ドイツ騎士団国]]が[[ポーランド王領プロイセン]]内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、[[1520年]]にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部の[[オルシュティン]]へと逃れ、同地の防衛にあたった。[[1521年]]にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年には司教が死去したため、次の司教が選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。[[1525年]]にはドイツ騎士団国の最後の総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク]]がポーランドに臣従し、プロイセン公を称して[[プロシア公領]]を創設したため抗争は完全に終結した。
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[[シュチェチン]]大学などのチームが[[2004年]]から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から[[2005年]]夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。[[2008年]]11月、シュチェチン大学と[[スウェーデン]]の[[ウプサラ大学]]との共同で、この遺骨と、他の場所で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる[[毛髪]]との[[DNA鑑定]]を行い、両者の[[DNA]]の一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。
 
== 主な業績著作 ==
* 1510年頃 「[[コメンタリオルス]]」(Comentariolus、同人誌)
*:太陽中心説([[地動説]])をはじめて公にした。
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== 地動説 ==
コペルニクスのもっとも重要な業績は地動説の再発見である。当時は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]が2世紀中ごろに大成した天動説が一般的な学説であったが、惑星観測の精度が上がるたびに惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていた<ref>「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p12 ニュートンプレス 2009年5月15日発行</ref>。この複雑さを解消するためにコペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見した。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、[[ヨハネス・ケプラー]]により発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある<ref>[[竹内薫]]著 『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』[[光文社]]新書 ISBN 978-4334033415</ref>)。
 
== グレシャムの法則 ==
コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを突き止めたことである。これは、当時[[ドイツ騎士団]]が粗悪な[[銀貨]]を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。この理論はほぼ半世紀後、[[1560年]]に彼とは別に独自にこのことに気付いた[[イギリス]]国王財政顧問の[[トーマス・グレシャム]]によって知られるようになり、「[[グレシャムの法則]]」の名で知られるようになった。
 
== 『天体の回転について』とローマ教皇庁 ==