「ニコラウス・コペルニクス」の版間の差分

編集の要約なし
コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを突き止めたことである。これは、当時[[ドイツ騎士団]]が粗悪な[[銀貨]]を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。この理論はほぼ半世紀後、[[1560年]]に彼とは別に独自にこのことに気付いた[[イギリス]]国王財政顧問の[[トーマス・グレシャム]]によって知られるようになり、「[[グレシャムの法則]]」の名で知られるようになった。
 
== 死後の影響 ==
== 『天体の回転について』とローマ教皇庁 ==
コペルニクスの死と同時に世に送り出された地動説は、しかし直ちに大きく学界を動かすといったことはなかった。『天体の回転について』は禁書となることもなく各地の天文学者のもとに広く知られるようになっていったが、だからと言ってこの理論が正しいと考える者もあまりいなかった。コペルニクスの観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。[[1551年]]には[[エラスムス・ラインホルト]]が『天体の回転について』に基づいて『[[プロイセン表]]』を作成したが、これも従来の[[星表]]の精度から大きく離れるものではなかった。この状況が大きく変わるのは、[[1619年]]に[[ヨハネス・ケプラー]]が惑星は楕円軌道を描いているという[[ケプラーの法則]]を発見し、これによって地動説を補強するデータが大幅に精度を上げて以降のことである。[[1627年]]にはケプラーが地動説に基づいて『[[ルドルフ表]]』を完成させ、これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そして[[アイザック・ニュートン]]が[[1687年]]に『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(プリンキピア)の中で[[万有引力の法則]]を発表し、これによって地動説は完全なものとなった。
 
コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者[[イマヌエル・カント]]が「[[コペルニクス的転回]]という言葉を作り、やがてこの言葉が[[パラダイム]]転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
 
== 『天体の回転について』とローマ教皇庁 ==
[[1616年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『[[天体の回転について]]』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『[[聖書]]』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。)
ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。