「東京都立新宿高等学校」の版間の差分

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「興國之鐘」とは、[[日露戦争]]時に活躍した戦艦三笠の時鐘(じしょう・時刻を知らせる鐘)の名で、三笠除籍後にその鐘が府立六中に下賜され、校内の鐘楼に掲げられて六中の象徴となっていた。終戦後、進駐軍による接収を逃れるために、その鐘は校内の地中に埋め隠されたといわれる(以後、何度か発掘作業が試みられたが発見されていない)。現在でも校地のどこかにこの「興國之鐘」が眠っているという伝説が残っている([[1950年]]に勃発した[[朝鮮戦争]]による特需で金属類の需要が高まった時期に何者かが掘り起こしたなどの説もある)。第二の校歌ともいえる「六中健児の歌」([[堀内敬三]] 作詞・作曲)の一節に「興国の鐘は響けり」とあるのは、この鐘のことである。また、この「興國之鐘」、[[荒木貞夫]]の「裕丸」なる刀、それと新宿御料地にあることを六中の「三宝」としていた。
 
戦後は、[[1957年]]に[[東京大学]]現役合格者数で首位の座に立ったこともあり、国内屈指の[[進学校]]として全国的にもその名が知られていたが([[1968年]]までは毎年70〜100名が東京大学に合格していた)、その後の[[学校群制度]]の導入、[[全学共闘会議|全共闘運動]]の波及による[[学園紛争]]の拠点校として次第に敬遠されるようになり、東京大学合格実績上位校の座は下りることになる。
 
=== 年表 ===