「ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)」の版間の差分

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イギリスと中国の[[清朝]]との間で行われていた貿易は[[広州市|広州]]一港に限られていたため、[[1791年]]、マカートニーは前任のカスカートの病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が派遣する、清朝皇帝[[乾隆帝]]の80歳を祝う使節団として派遣され、[[1792年]]9月に[[スピットヘッド]]からライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。
 
イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に[[熱河]]離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。[[中華思想|華夷秩序]]に基づく[[中華世界]]において、周辺諸国からの外交使節は「[[徳#中国における徳|皇帝の徳]]」を慕っての[[朝貢]]使節と認識され、マカートニーは、朝貢使節が皇帝に対して行う中国式の儀礼である[[三跪九叩頭の礼]](三回跪き、九回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形でイギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。英中貿易の全権大使は次代の[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)|ウィリアム・アマースト]]に引き継がれた。
 
[[坂野正高]]訳注で『中国訪問使節日記』([[平凡社東洋文庫]]、初版1975年)がある。
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== 関連項目 ==
* [[阿片戦争]]
* {{仮リンク|[[ウィリアム・アマースト|en|William Amherst, 1st Earl Amherst}}(初代アマースト伯爵)]]
*{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney Embassy}}
{{Normdaten}}