「源頼義」の版間の差分

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=== 前九年の役勃発 ===
50歳を目の前にしてようやく受領となった頼義を尻目に、弟の頼清は安芸守を始めとして[[陸奥国|陸奥]]や[[肥後国|肥後]]守など諸国の受領を歴任し、着実に能吏としての道を歩んでいった。そんな中、かつて頼清が国司を勤めた[[陸奥国]]で騒乱が起きる事となる。陸奥国は[[俘囚]]と呼ばれる土着の豪族達が割拠していたが、その中でも最も勢力が大きかったのが[[奥六郡]]を支配する[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]であった。安倍一族の首領・[[安倍頼時|安倍頼良]]は朝廷への[[貢租]]を怠る事度々であり、却って衣川以南への勢力拡大の動きも見せた。このため[[永承]]6年([[1051年]])、時の陸奥守・[[藤原登任]]は頼良懲罰の為に、[[秋田城介]]の[[平繁茂]]と共に官軍を率いて玉造郡鬼切部にて賊軍と干戈を交え(鬼切部の戦い)、ここに12年にわたる[[前九年の役]]の火ぶたが切られることとなった。結局、この前九年の役最初の合戦となった鬼切部での戦いは、頼良率いる賊軍の前に官軍が大敗したため国司・登任は陸奥守を更迭された。
 
ここに至って奥州の騒乱は朝廷にとっても見過ごせないものとなり、登任の後任の陸奥守として白羽の矢が立ったのが頼義であった。朝廷は頼義を陸奥守、さらに[[鎮守府将軍]]を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように賊軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。一方、武名高い頼義が将軍として下向することを知った頼良は恐れ慄き、頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった[[多賀城]]に着任すると、大人しく恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院([[藤原彰子]])の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、戦役は休戦状態(実質的に終戦)となった。