「源頼義」の版間の差分
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=== 前九年の役勃発 ===
50歳を目の前にしてようやく受領となった頼義を尻目に、弟の頼清は安芸守を始めとして[[陸奥
ここに至って奥州の騒乱は朝廷にとっても見過ごせないものとなり、登任の後任の陸奥守として白羽の矢が立ったのが頼義であった。朝廷は頼義を陸奥守、さらに[[鎮守府将軍]]を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように賊軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。一方、武名高い頼義が将軍として下向することを知った頼良は恐れ慄き、頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった[[多賀城]]に着任すると、大人しく恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院([[藤原彰子]])の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、戦役は休戦状態(実質的に終戦)となった。
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