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{{Infobox 作家
| name = W・H・オーデン
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| birth_place = {{GBR}}・[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]
| death_date = {{death date and age|1973|9|29|1907|2|21|df=yes}}
| death_place = {{AUT}}・[[ウィーン]]
| occupation = 詩人
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| awards = [[ピューリッツァー賞 詩部門]](1948年)</br>[[全米図書賞]] 詩部門(1966年)</br>[[ヨーロッパ文学のためのオーストリア国家賞|オーストリア国家賞]](1966年)</br>[[ストルガ詩の夕べ]]金冠賞(1971年)
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'''ウィスタン・ヒュー・オーデン'''(Wystan Hugh Auden, [[1907年]][[2月21日]] - [[1973年]][[9月29日]])は[[イギリス]]出身で[[アメリカ合衆国]]に移住した[[詩人]]。[[20世紀]]最大の詩人の一人とみなされている。
 
== 生涯 ==
=== 幼年期 ===
イングランドの[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]に生まれる。父親のジョージ・オーガスタス・オーデン<sup>([[:en:George Augustus Auden|英語版]])</sup>は医者。ウィスタンは3人兄弟の3番目だった。父方と母方の祖父は二人とも[[イングランド国教会|英国国教会]]の聖職者。オーデンは英国国教会の中でもローマカトリック寄りのアングロカトリックの家庭で育った。後年、幼年期に行った教会での奉仕活動が音楽や言葉への愛にいくらか影響を与えたと回想している。また、オーデンは自身が[[アイスランド]]系の末裔であると信じ、生涯を通じてアイスランドの伝説や[[北欧神話]]への関心が作品に影響を与えることとなる。一方で、公衆衛生学の講師だった父の蔵書を通して、オーデンは[[精神分析学]]に関心を持つようになる。
=== 教育 ===
最初に入学した[[寄宿学校]]は、[[サリー_(イングランド)|サリー]]にある[[聖エドマンド校]]だった。3学年上にはのちにオーデンに文学上の助言を多く与えることになる[[クリストファー・イシャウッド]]がいた。13歳から[[ノーフォーク]]の[[グレシャム校]]に通う。ここで友人に詩を作るかどうか尋ねられたことがきっかけでオーデンは詩作への適性を自覚する。1922年のことだった。また、この直後から自分が信仰を失ったことに気付く。これは価値観の決定的な変化というよりも宗教への関心の喪失が、自分でもだんだんはっきりと分かるようになったというものだった。1923年、自作の詩が校内雑誌に載り、初めてオーデンの詩が活字化される。1922年にシェークスピア劇の学校制作として「[[じゃじゃ馬ならし]]」のカタリーナを演じ、最終学年の年である1925年には「[[テンペスト_(シェイクスピア)|あらし]]」のキャリバンを演じた。
1925年に生物学の奨学金でオックスフォード大学の[[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入ったが、2年次に英語専攻に切り替えた。1928年にクライスト・チャーチを去るまで数多くの友人とめぐり合うが、とりわけ[[セシル・デイ=ルイス]]、[[ルイス・マクニース]]、[[スティーブン・スペンダー]]らとの交流は、1930年代における「オーデングループ」の発言へと繋がっていく。また、1925年に友人を介して[[クリストファー・イシャウッド]]を紹介され、交流が始まる。オーデンがイシャウッドに自作の詩を送り、イシャウッドが批評を返すというかたちで、イシャウッドは多くの助言をオーデンに与えた。
=== 1928-1938 ===
[[1928年]]の秋にオーデンは9ヶ月間イギリスを離れ、[[ヴァイマル共和政]]時代の[[ベルリン]]に滞在した。当時のベルリンは[[同性愛]]に対する抑圧が[[ロンドン]]に比べるとまだましだったので、これにはイギリス社会での抑圧に対抗という意味合いもあった。そこで彼の中心主題のうちの1つになった、政治的および経済的な不安を最初に経験することになった。[[1935年]]には[[トーマス・マン]]の長女エーリカ[[:en:Erika Mann|(Erika Mann)]]と[[偽装結婚]][[:en:Lavender marriage|(Lavender marriage)]]をしてイギリスの市民権を得させて、アメリカへの亡命を可能にした<ref>オーデンの[[1936年]]の[[:en:On This Island|On This Island]]はエーリカに捧げられている。評論家[[エリカ・ジョング]]の名前[[:en:Erica Jong|(Erica Mann Jong)]]はエーリカにちなんだものである。</ref>。[[日中戦争]]勃発後の[[1938年]]に[[中国]]を訪問している。1930年代には[[マルクス主義]]を捨てて[[キリスト教]]に戻った。
=== 1939-1973 ===
[[1939年]]にアメリカ合衆国に移住し、[[1946年]]に国籍を取得した。1973年に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で死去した。
 
オーデンが[[ナチス・ドイツ]]の[[ポーランド]]侵攻及び[[第二次世界大戦]]の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、[[2001年]]9月の[[アメリカ同時多発テロ]]直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩として[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心に改めて注目され広く読まれた。
 
== 主な訳書 ==
*[[深瀬基寛]]訳『オーデン詩集』筑摩書房、1955
*[[沢崎順之助]]訳『怒れる海 ロマン主義の海のイメージ』南雲堂 1962
*『世界詩人全集 第19』オーデン詩集([[中桐雅夫]]訳) 新潮社 1969
* 中桐雅夫訳『第二の世界』晶文社〈晶文選書〉1970
* 中桐雅夫訳『染物屋の手』晶文社 1973
*『筑摩世界文学大系 71 (イェイツ,エリオット,オーデン)』オーデン [[工藤昭雄]]等訳 筑摩書房 1975
* [[風呂本武敏]]訳『演説者たち』国文社、1977
*中桐雅夫訳『オーデン わが読書』[[晶文社]] 1978
*[[安田章一郎]]、風呂本武敏、[[櫻井正一郎]]編著『オーデン名詩評釈 原詩と注・訳・評釈』大阪教育図書 1981
*風呂本武敏訳『新年の手紙』国文社、詩集 1981
*[[山田良成]]訳『シェイクスピアの都市』荒竹出版 1984 シェイクスピア論シリーズ
*風呂本、櫻井正一郎訳『しばしの間は』国文社、1986
*[[大橋勇]]、木村博雄、森米二、原千賀子、米本義孝、平林裕子、大橋佳代訳『不安の時代 バロック風田園詩』 国文社 1993
* 中桐雅夫訳、[[福間健二]]編『オーデン詩集』 [[小沢書店]]〈双書20世紀の詩人〉 1993
* [[沢崎順之助]]訳編『W・H・オーデン詩集』[[思潮社]]〈海外詩文庫〉1993 
* [[岩崎宗治]]訳『もうひとつの時代』[[国文社]] 1997
 
== 引用された作品 ==
* 映画
: [[フォー・ウェディング]]([[1994年]] )- ゲイの友人を亡くした男性が弔辞として「葬儀のブルース」[[:en:Funeral Blues|(Funeral Blues)]]を朗読
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{DEFAULTSORT:おてん}}
[[Category:イギリスの詩人]]
[[Category:アメリカ合衆国の詩人]]
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]
[[Category:モダニズム]]
[[Category:LGBTの著作家]]
[[Category:ゲイの人物]]
[[Category:スペイン内戦の人物]]
[[Category:ヨーク出身の人物]]
[[Category:オックスフォード大学出身の人物]]
[[Category:1907年生]]
[[Category:1973年没]]
 
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