「千徳政氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ページの置換: '>tfw no qt jap wikipedo bf'
m 112.95.239.70 (会話) による版を 58.93.169.86 による版へ巻き戻し
1行目:
{{基礎情報 武士
>tfw no qt jap wikipedo bf
| 氏名 = 千徳政氏
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[慶長]]2年3月5日([[1597年]][[4月21日]])<ref>『永禄日記』の記述による。</ref>
| 改名 =
| 別名 = 汗石政氏、一戸政氏、大和守
| 戒名 =
| 墓所 =
| 主君 = [[南部信直]]
| 氏族 = [[千徳氏]]
| 父母 = 父:[[千徳政吉]]?
| 兄弟 =
| 妻 =[[津軽石勝富]]の娘?
| 子 = [[千徳政康|政康]]、城之介
| 特記事項 =
}}
'''千徳 政氏'''(せんとく まさうじ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[浅瀬石城]]主。
 
== 生涯 ==
[[閉伊郡]][[千徳城]]主、[[千徳政吉]]の子として生まれる。
 
[[弘前藩]]に残る記録には、主家である[[南部氏|南部家]]を裏切って[[津軽為信]]と同盟を結び、その津軽統一に協力した人物と書かれている。しかし生没年や系図などはそれぞれ史料により異なるためはっきりした事は分かっていない。
 
天正11年([[1583年]])1月、[[津軽石氏]]と[[津軽石川]]の漁業権を巡る争いとなり、[[払川館]]城主の津軽石九郎勝富<ref>『千徳舘興廃実記』は討死した人物を津軽石九郎行重とするが、『[[系胤譜考]]』一戸系図によると九郎勝富のことと思われる。</ref>を謀殺する。同年、病死した[[千徳政吉]]の跡を継いで[[浅瀬石城]]主となる<ref>『千徳舘興廃実記』</ref>。
 
天正13年([[1585年]])4月、南部家への反逆に激怒した[[南部信直]]の命を受けた、名久井城主[[東政勝]]を大将とする3000の軍勢が浅瀬石城を攻めるも、これを撃退した<ref>『永禄日記』『[[津軽一統志]]』</ref>。なおこの合戦に為信が援軍を出さなかったことが、後々の千徳氏と為信の不和に繋がったとされる。同年5月、兵600を率いて為信と共に[[田舎館城]]主の[[千徳政武]]を攻め滅ぼした。死期は史料により食い違うが、『青森県史』『岩手県史』では子の政康が為信に討たれたのと同じ[[慶長]]2年([[1597年]])説を採っている。『永禄日記』では、為信により[[堀越城]]に呼び寄せられ子息共々殺害されたとし、政氏の三男城之介の四歳の子供は家臣と共に南部へ落ち延びたという<ref>永禄日記慶長2年3月5日「浅瀬石大和並、一子安芸両人堀越之城江呼寄、大勢取巻打取。三男城之介ハ先達而病死致候。其子息一人四歳ニ成しを家来引連南部江落行候。右者先年より謀反之心有之ニ付顧此度打取候由。」</ref>。また千徳家の家臣が残した文献では[[天正]]16年([[1588年]])に没したと言う。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:せんとく まさうし}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:千徳氏|まさうし]]
[[Category:南部氏の庶家]]
[[Category:16世紀生]]
[[Category:1597年没]]