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'''米良 重方'''(めら しげかた)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]の家臣。[[日向国]][[諸県郡]][[須木城]]主。三ツ山地頭。
 
須木[[米良氏]]は、[[菊池氏|肥後菊池氏]]の末裔と言われ、日向伊東氏の[[怨霊]]を払う[[神社]]の[[大宮司]]職を務める家系にある。[[薩摩国]][[島津氏]]と接する小林村(現・[[宮崎県]][[小林市]]真方)に[[小林城]]を作るよう命じられ、かつその城主にも任命され須木城と小林城を領有することになる。
 
[[永禄]]9年([[1566年]])10月26日(永禄10年10月25日説も)、築城中の小林城に[[島津義久]]・[[島津義弘|義弘]]・[[島津歳久|歳久]]が攻め寄せた際、重方は弟・[[米良矩重|矩重]]と共に奮戦。須木城からの援軍を得て、義弘を負傷させ島津軍を退却させる。翌永禄11年([[1568年]])、飫肥での戦いにおいて、伊東方の代表として島津方の[[北郷忠顕]]と戦後交渉を行い、島津軍の撤退と飫肥領の割譲を実現させ、知勇兼備の将と謳われた。この頃に[[野首城]]も賜る。