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=== 国家社会主義への傾倒 ===
[[1926年]]、単一無産政党として、[[労働農民党]]が結成されるが、まもなく[[社会民衆党]](右派)・[[日本労農党]](中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。[[1932年]]、分裂する無産政党を糾合して、[[社会大衆党]]が結成されると、浅沼もこれに加わったが、このとき、浅沼は書記長の[[麻生久]]の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会主義[[変革命]]を目指そうという[[国家社会主義]]的な路線を打ち出すと、これを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。[[1933年]]に東京市会議員に、[[1936年]]には[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]に初当選した。[[1940年]]に[[斉藤隆夫]]衆議院議員が、泥沼化する[[日中戦争]]に対して解決策を見いだせず、ないまま戦争を継続する政府・軍部の姿勢を批判するした[[反軍演説]]を行った時、その除名にも賛成した。
1940年に[[大政翼賛会]]が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任した<ref>『昭和の代議士』[[楠精一郎]] 文春新書</ref>。しかし、同年に麻生が亡くなると急死、心のよりどころを失った浅沼はの精神の変調を的苦痛は大きたすようになりく、[[1942年]]の総選挙(いわゆる[[翼賛選挙]])での立候補をも辞退したが、政界の第一線から一時退くこれとによなるが、かえって浅沼は戦後[[公職追放]]を免れることとなる。
=== 日本社会党時代 ===
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