「水野忠照」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])1月28日将軍[[徳川家継]]に拝謁し、同年6月22日兄の忠周から蔵米2000俵を[[分知]]されて[[旗本寄合席|寄合]]に列する。
 
甥の松本藩主[[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]]が、[[享保]]10年([[1725年]])7月28日、[[長府藩]]世子(後に7代藩主)の[[毛利師就]]に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は[[改易]]となってしまう。しかし、家名存続を願う声が強く、分家の[[若年寄]][[水野忠定]]の取り成しにより、忠照には幕府から信濃[[佐久郡]]2000石の替地(根々井知行所)を与えられ、旗本として明治維新まで存続した。[[日本橋浜町]]に屋敷を構えたため、この家系は'''浜町水野氏'''と呼ばれるようになった。
 
寛保3年(1743年)に江戸で没し、小石川伝通院に葬られる。享年48。法名は全照。