「ヘレナ・ヴィクトリア・オブ・シュレスウィグ=ホルスタイン」の版間の差分

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[[ファイル:Pss Helena Victoria.png|thumb|ヘレナ・ヴィクトリア公女、1920年]]
[[ファイル:Helena Victoria of Schleswig-Holstein.jpg|thumb|少女時代のヘレナ・ヴィクトリア]]
'''ヘレナ・ヴィクトリア・オブ・シュレスウィグ=ホルスタイン'''({{lang-en|'''Helena Victoria of Schleswig-Holstein'''}}, [[1870年]][[5月3日]] [[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]、[[イングランド]] - [[1948年]][[3月13日]] ウィンザー)は、ドイツ=デンマーク系の[[アウグステンブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク家]]の公女で、[[イギリス王室]]の一員。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の孫娘の1人。全名はヴィクトリア・ルイーズ・ソフィア・オーガスタ・アメリア・ヘレナ(Victoria Louise Sophia Augusta Amelia Helena)。
 
== 生涯 ==
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公[[フリードリヒ8世・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン|フリードリヒ8世]]の弟[[クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|クリスティアン]]と、ヴィクトリア女王の三女[[ヘレナ (イギリス王女)|ヘレナ]]の間の第3子、長女として、[[ウィンザー城]]の近くに立つフロッグモア・ハウス([[:en:Frogmore House|Frogmore House]])で誕生した。両親はカンバーランド・ロッジ([[:en:Cumberland Lodge|Cumberland Lodge]])を住まいとしてイギリスで暮らしており、4人の子供たちも広義のイギリス王室の成員と見なされていた。家族からは「ソーラ(''Thora'')」の愛称で呼ばれたが、きつい顔立ちをしていたために[[鴫]]を意味する「スナイプ(''Snipe'')」のあだ名で呼ばれることもあった。なお、「ヘレナ・ヴィクトリア」という公式名は彼女の6つの洗礼名の最初と最後を逆にしてつなげたものである。
 
ヘレナ・ヴィクトリアは生涯独身で通し、母親を手本に様々な慈善活動に従事し、[[キリスト教青年会]](YMCA)、[[キリスト教女子青年会]](YWCA)、ウィンザーのプリンス・クリスティアン病院などに大いに貢献した。[[第1次世界大戦]]中には、YWCAの婦人補助部隊を結成して自らその隊長となり、陸軍大臣の[[ホレイショ・キッチナー|キッチナー伯爵]]の許しを得て[[フランス]]に駐屯するイギリス軍を慰問している。
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*"Royal Titles: German Names Dropped, British Peerages for Princes," ''The Times'' 20 July 1917, p. 7.
 
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[[Category:イギリスの貴族]]