「熊谷大橋 (荒川)」の版間の差分

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== 概要 ==
旧熊谷東松山有料道路([[熊谷東松山道路]])から、熊谷市街地の混雑を抜けるために作られたと考えられ<ref name="kumatsushi462">『熊谷市史 通史編』462頁</ref>、この橋から3 kmほど北方向に進むと、[[国道17号]]に至る。
荒川河口から79.6キロメートルの位置に架かり<ref name="amoanote8">{{Cite web |date= |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |title=amoa企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号 |format=PDF |publisher=荒川下流河川事務所(荒川知水資料館) |page= |accessdate=2015-01-06 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20051108163526/http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |archivedate=2005-11-08}}</ref>、橋長は1163.85メートル(渡河部910.0メートル、取付高架253.85メートル)、幅員は10.0メートル<ref name="kumatsushi461">『熊谷市史 通史編』461頁</ref>、最大支間長は73.5メートル<ref>{{PDFLink|[http://www.cantilever-method.org/works/works.pdf プレストレスト・コンクリート橋カンチレバー工法実績集]}}p.4 - カンチレバー技術研究会、2015年12月、2016年2月2日閲覧。</ref>。13径間[[プレストレスト・コンクリート橋|PC]]連続[[ラーメン橋]]である<ref name="kumatsushi461"/>。歩道は幅員2.5メートルあり、照明灯とともに下流側に設けられている。また、埼玉県の第一次緊急輸送道路に指定されている<ref name="bosai">{{PDFLink|
[http://www.ktr.mlit.go.jp/oomiya/06info/0312outcom/pdf_plan/plan03-7.pdf 3.7 防災機能の強化]}} - 国土交通省 関東地方整備局、2016年2月2日閲覧。</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a1006/jigyousyoukai/k-road.html 埼玉県の緊急輸送道路] - 埼玉県ホームページ、2015年1月6日閲覧。</ref>。完成当時はコンクリート橋としては日本一の長さだった<ref name="kumatsushi461"/><ref name="kumatime"/>。広瀬側には[[広瀬野鳥の森]]が広がり、さらにそのまま[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]を越える6径間単純プレートガーダー橋(鋼鈑[[桁橋]])の[[跨線橋]](取付高架)と一体化している。跨線橋は、秩父鉄道の[[広瀬川原車両基地]]を沿うように越えている。跨線橋の先は[[盛土|築堤]]の天端に接続され、さらに北に進むと[[国道140号]]に至る。押切側のアプローチ区間は小河川を越えるプレートガーダー橋が1連あり、その先は緩い曲線を描く築堤の天端を道路が通る。[[コミュニティバス]]を含めた公共交通機関の走行経路には特に設定されていない。橋の南詰付近に[[熊谷市ゆうゆうバス]]ほたる号の「樋春南」停留所、北詰付近に熊谷市ゆうゆうバスさくら号の「広瀬西」停留所がある<ref>[http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/sogo/kikaku/koutu/yuuyuubasu.html 熊谷市ゆうゆうバス -路線図と時刻表、運行情報-] - 熊谷市、2016年1月21日閲覧。</ref>。
 
== 歴史 ==
=== 樋春の渡し ===
[[ファイル:Misho Hiharu-no-watashi 1.jpg|thumb|樋春の渡し(1931年頃)]]
この橋の下流側に「樋春の渡し」と呼ばれる(「おりっとの渡し」とも称する。)、いつから存在したかは定かではないが、[[1878年]](明治9年)頃までには存在した村道に属する船2艘を有する私設の[[渡船]]が存在した<ref>『江南町史 通史編 下巻』131-133頁。</ref><ref name="Arajin2-214">『荒川 人文II -荒川総合調査報告書3-』214頁。</ref><ref name="Arasui-34">『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』34、71頁。</ref>。すぐ下流の「村岡の渡し」に[[荒川大橋]]が[[1909年]](明治42年)に架橋された後もこの[[渡船]]の利用は多かったようである<ref name="kumatsushi461"/>。この渡船場は昭和初期に廃止されている<ref name="Arasui-34"/>。
 
=== 橋の建設 ===
橋は[[熊谷東松山有料道路]]の第二期工事である広瀬線建設(事業区間4.8 Km)の一環として架けられ<ref name="saishin760302">昭和51年3月2日『埼玉新聞』2頁。</ref>、[[埼玉県道路公社]]が事業主体となり<ref name="saishin760302"/>、総工費19億2000万円を投じ[[1973年]](昭和48年)11月着工された。上部工は当時の最新工法であった、ディビダーク工法で架橋された。また下部工は空気潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を用いて建設された<ref name="kumatsushi461"/>。橋は[[1976年]](昭和51年)1月竣工し<ref name="kumatsushi461"/><ref name="kumatime">[http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/sogo/kohokotyo/timemachine/pickup/hurusato_1912.html 広報タイムマシン 橋の巻] - 熊谷市ホームページ、2007年12月5日、2016年2月2日閲覧。</ref>、同年3月1日に開通した<ref name="kumatsushi461"/>。開通式は同日10時30分より右岸側橋詰(江南村側)にて挙行され、
周辺自治体の首長や議長、工事関係者や地権者など約80名が出席した<ref name="saishin760302"/>。
開通式は熊谷市長や県道路公社副理事長他4名によるテープカットが執り行われ、江南村在住の三代夫婦による渡り初めが行われた<ref name="saishin760302"/>。また、同日13時より一般供用を開始した<ref name="saishin760302"/>。