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|市民権=
|国籍= {{JPN}}
|出身校= [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学]][[法学部|法科大学独法科]]
|配偶者= 末弘冬子
|両親= [[末弘厳石]](父)
|子供=
|時代=
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|脚注=
}}
 
'''末弘 厳太郎'''(すえひろ いずたろう、[[1888年]]([[明治]]21年)[[11月30日]] - [[1951年]]([[昭和]]26年)[[9月11日]])は、[[大正]]・[[昭和]]期の[[日本]]の[[法学者]]。[[東京大学]][[名誉教授]]。[[正三位]][[勲等|勲一等]][[瑞宝章]]。研究対象は、[[民法]]、[[労働法]]、[[法社会学]]。[[川名兼四郎]]門下。
 
== 経歴 ==
[[File:Suehiro Izutaro 1889.jpg|thumb|150px|生後45日の厳太郎(左は姉)]]
1888年(明治21年)、[[大審院]]判事であった[[末弘厳石]](すえひろ いずし(げんせき))の長男として[[山口県]]に生まれる。[[開成中学校・高等学校|東京開成中学]]、[[正則学園高等学校|正則英語学校]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1912年]](明治45年)7月に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学]][[法学部|法科大学独法科]]を優等で[[卒業]]し[[銀時計]]を授与される。同大大学院に進み、[[1914年]]([[大正]]3年)7月、東京帝大法科大学[[助教授]]となる。
 
[[1917年]](大正6年)11月、民法研究のため[[シカゴ]]などへ留学。[[1920年]](大正9年)4月、[[博士(法学)|法学博士]]号を取得し、同年9月に帰国。[[1921年]](大正10年)4月に東京帝国大学[[法学部]][[教授]]に就任。[[1942年]](昭和17年)3月から[[1945年]](昭和20年)3月まで東京帝大法学部長を務めた。
 
[[1946年]](昭和21年)3月31日、東京帝国大学を辞職。その後、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の政策の影響を受けて教職追放を受けた<ref name="Suiren">{{PDFLink|[http://www.swim.or.jp/magazine/download/92.pdf 日本水泳連盟名誉会長 末弘厳太郎先生略歴]}} 日本水泳連盟機関誌『水泳』第92号2頁 1951年(昭和26年)11月</ref>。
 
[[1950年]](昭和25年)9月に[[直腸癌]]の手術を受け、1951年(昭和26年)9月11日、[[東京都]][[世田谷区]][[宇奈根|宇奈根町]]の自邸にて死<ref name="Suiren"/>。{{没年齢|1888|11|30|1951|9|11}}。
 
墓所は[[豊島区]][[駒込]]の[[染井霊園]]。
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以上のように、末弘は余人の追随を許さない変幻自在の思考の持ち主であったが、後進の研究者からは末弘理論を純化承継できる人物は遂に現われなかった。遺稿は、孤独が自分の性分であった<ref>[[和仁陽]]「末弘厳太郎」(法学教室178号72頁)</ref>。
 
== 親族 ==
* 妻 末弘冬子 [[数学者]]・[[政治家]]として活動した[[菊池大麓]]の三女。菊池家を通じ、末弘家は[[箕作家]]と姻戚関係にある。
* 妹 池田須賀([[池田克]]・[[最高裁判所裁判官]]の妻)
 
:なお、鳩山秀夫の妻・千代子は菊池大麓の次女であり、末弘と鳩山が義兄弟の関係にある。
 
== 賞詞 ==
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* 『法学入門』(日本評論社、1970年)
 
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
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[[Category:1888年生]]
[[Category:1951年没]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]