「ひめゆりの塔事件」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
33行目:
'''ひめゆりの塔事件'''(ひめゆりのとうじけん)は、[[1975年]][[7月17日]]に[[沖縄県]][[糸満市]]で発生した、[[日本の新左翼]]系[[過激派]]による[[明仁|皇太子明仁親王]](当時)および[[皇后美智子|同妃美智子]]に対する2つの[[ゲリラ]]事件の総称である。
[[皇室]]としての[[第二次世界大戦]]後初の沖縄県訪問に際し、皇太子および同妃に、新左翼党派・沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))と[[共産主義者同盟戦旗派|共産主義者同盟(西田戦旗派)]]の各メンバー2人が、潜伏していた洞窟(ひめゆりの壕)や白銀病院から[[火炎瓶]]やガラス瓶、[[スパナ]]、石を投げつけた[[テロリズム|テロ]]事件。皇太子および同妃や関係者に大きな怪我はなかった。
== 事件背景 ==
[[沖縄返還|沖縄復帰]]後に開催された[[沖縄国際海洋博覧会]]に際して、皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にある[[ひめゆりの塔]]を訪れることが伝えられた。これは[[皇族]]による[[第二次世界大戦]]後初めての沖縄訪問だった。[[戦後]]まもなく全国各地を回った「戦後巡幸」の際、[[昭和天皇]]は「[[戦争]]を防止出来ず、[[国民]]をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く[[日本]]を再興したい。そうすることが[[日本国憲法|新憲法]]の精神に従った国民と皇室との関係を確立できるのではあるまいか」と、その志を側近に述べている。
「
沖解同(準)は、最終的に7月10日に「『ひめゆりの壕』に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と[[爆竹]]を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの[[知念功]]と西田戦旗派のメンバーの2人が、「ひめゆりの壕」に11日に潜入した。知念は、沖縄史ととりわけ
また、[[屋良朝苗]]
=== 警備 ===
7月17日の皇太子到着当時、[[沖縄県警察]]本部は他県からの約1,000人の応援部隊を含めて3,700人の[[日本の警察官|警察官]]による[[警備]]態勢を敷いていた。[[警察庁警備局警備課]]は当初、本土から[[機動隊]]員5000人を派遣する方針を打ち出していたが、沖縄県民や[[マスコミュニケーション|マスコミ]]からの「過剰警備」批判を恐れた[[ハト派]]の[[三木武夫内閣]]は、屋良県知事らの「警察は火炎瓶が飛ぶなどと言っておりますが、そんなことは絶対にありません」といった楽観論もあり、警備人員を大幅に削減した<ref>[[佐々淳行]] 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、92頁</ref>。また、皇太子および同妃の訪問に先立ち沖縄県警察は左翼活動家に対する視察をしていたが、左翼活動家の沖縄到着を見過ごしていた他、車載無線機を盗まれるなどの失態もあった<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、66頁</ref>。
なお、[[警察庁]]から警備責任者として派遣されていた[[佐々淳行]]警備局警備課長は、皇太子および同妃の訪問に先立ち地下壕内の安全確認を主張したものの、沖縄県知事、沖縄県警察の担当者らに「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」と反対されたために実施できなかった<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、60頁</ref>、と自著に記している。
51行目:
== 発生 ==
; 白銀病院でのテロ
: 正午頃、糸満市にある白銀[[病院]]に病気を偽装して「入院」していた「患者」と「見舞い客」に偽装した沖縄解放同盟準備会の活動家2人([[川野純治]]、他)が、病院の下を通過する皇太子および同妃の車両に3階のベランダから「皇太子帰れ、天皇制反対」等と叫びながらガラス瓶や[[スパナ]]、石などを投擲し、警備車両を破損させた。2人は[[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]]の[[現行犯]]で[[逮捕]]された。またこの際に、活動家の犯行を阻止しようとした同病院の[[医師]]らが活動家から暴行を受けた<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、77頁</ref>。
; ひめゆりの壕でのテロ
: [[ラジオ]]で白銀病院事件を含む地上の情報を聴いていた知念ら「ひめゆりの壕」の2人は、[[中継放送|実況中継]]で午後1時5分頃に皇太子および同妃がひめゆりの塔に到着したことを知る。2人は地下壕に梯子を架けて、地上に這い出ると、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲した。火炎瓶は献花台に直撃して炎上したが、皇太子妃が警察官に庇われて地面に倒れた際に打撲傷を負った以外は、皇太子および同妃に大きな怪我はなかった。知念ら2人は「[[礼拝所及び墳墓に関する罪|礼拝所不敬罪]]」([[刑法 (日本)|刑法]]第188条第1項)並びに「[[火炎びんの使用等の処罰に関する法律|火炎瓶処罰法]]」違反の現行犯で逮捕された。
: この際、警備にあたっていた沖縄県警警備陣は火炎瓶に驚き任務放棄して逃げてしまったが、警護に当たっていた[[皇宮警察]]側衛隊の一人が壕の中から這い上がってこようとする過激派に対して飛び掛かり引きづり落として更なる投擲を阻止した。
: なお事件直後に皇太子は、まず案内役を務め同行していた「ひめゆり会」会長の身を案じて声をかけた他、事件の発生に動揺する警備担当者を処分しないように関係者に依頼し<ref>佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、84頁</ref>、その後のスケジュールを皇太子妃とともに予定通りこなした。
== 事件後 ==
=== 裁判 ===
裁判の結果、「白銀病院」テロの2人には[[懲役]]1年6ヶ月、「ひめゆりの壕」テロの2人には懲役2年6ヶ月の[[実刑]]をそれぞれに言い渡した([[高等裁判所|高裁]]で確定)。[[検察官|検察]]は、沖縄解放同盟準備会のそれまでの声明や機関紙、押収した文書等に「皇太子[[暗殺]]」を示唆するような表現がなく、状況証拠等も鑑みて「[[殺人罪 (日本)|殺人未遂]]」での立件は見送った。判決文も4人の行為を「[[民主主義]]への挑戦」としたが、「皇太子夫妻の生命を脅かす害意があった」とする検察の主張は認定しなかった。
=== 警備関係者への処分 ===
66行目:
=== 事件後の皇族訪問 ===
皇族の沖縄訪問に際して賛否両論が巻き起こり、後の[[第42回国民体育大会|海邦国体]]では警戒された。昭和天皇の訪問は病のために実現できず、そのまま生涯を閉じた。しかし皇太子明仁親王は、十八万余柱が眠る摩文仁の丘で「深い悲しみと痛みを覚えます」と昭和天皇のお言葉を代読した。「これでやっと気持ちに区切りがついた」と声を詰まらせる人がいた反面、左翼系が会場での出迎えを欠席するなど、沖縄の複雑な事情をのぞかせた。集まった歓迎陣は「天皇[[陛下]]の御治癒を心からお祈り申し上げます」「天皇陛下のお言葉を心から感謝申し上げます」などと書いた横断幕を掲げた。
=== その他 ===
* 知念の勾留中の[[1977年]][[9月28日]]、[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]が発生し、この犯人グループが知念を含む9名の釈放を要求したが、知念はこれを拒否している。
* 当時、ひめゆりの壕で取材に当たっていた地元紙沖縄タイムスの記者は、TBSの番組において「怪しい男がいたので注目していました」と発言し、スタジオの出演者からも「スクープですね」と絶賛されていたが、「怪しい男」の存在に気づいていたにも拘らず警察に通報しないことは軽率なスタジオやマスコミ関係者共々批判を呼んだ。
* 川野は事件の35年後の2010年に[[名護市]]
== 参考文献 ==
|