「ジョー・アドニス」の版間の差分

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アルコール密売、ギャンブル、宝石泥棒、麻薬、組合・企業ゆすりから政界工作まであらゆる犯罪稼業に手を染め、特にカーディーラー会社を通じたフォード社との利権協定で悪名高かった。客が車を購入する際に偽の「保険」をかけて金を搾り取り、たばこメーカーの工場を占領して丸々利益を奪い取った<ref name="c"/>。1944年、テリトリーをニュージャージーに移して、[[ウィリー・モレッティ]]らと利権を分かち合った<ref name="b"/>。フォート・リーの高級住宅地に居を構えた<ref name="a"/>。パイピングロックという賭博場のオーナーの一人。[[フロリダ州]]、[[ルイジアナ州]]、[[カリフォルニア州]]などでカジノの経営に参画し、コステロやランスキーと共にマイアミのカジノ、コロニアル・インの共同オーナーに名を連ねた<ref name="a"/>。競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を得た。大富豪になったと同時に政治家や警察幹部を賄賂漬けにして犯罪捜査を遮断した<ref name="c"/>。ニューヨーク市長ウィリアム・オドワイアーやその側近ジェームス・J・モランと親交があり、一緒にいるところをたびたび目撃された<ref name="b"/>。1946年12月、キューバのハバナ会議を主催し、同年釈放されたルチアーノを歓待した<ref name="c"/>。1941年政府密告者[[エイブ・レルズ]]がアドニスを「アメリカで最も力のあるギャングの一人」と名指しし、以来当局にマークされるようになったが、摘発は免れた<ref name="c"/>。
 
===イタリメリカ追放===
[[1953年]]、[[キーフォーヴァー委員会]]に召還されて不法入国者として追及され、1956年1月、イタリアに追放された(正確には国外追放宣告を受ける前に多額の資金を持って自ら出国した)。イタリアに戻ってミラに定住し、悠々自適の生活を送った。先に追放されていたルチアーノとしばしば会ったが、関係は悪化した。ルチアーノはアドニスがアメリカの組織運営からジェノヴェーゼを排除しなかったことに腹を立てていたとも、比較的裕福なアドニスが財政的に窮状のルチアーノを助けなかったとも言われ、1960年代にかけて疎遠になった<ref name="b"/>。
 
アドニス出国後のニューヨークの縄張りは[[ヴィンセント・アロ]]が引き継いだとされる<ref name="d">[http://www.geocities.ws/organizedcrimesyndicates/GiuseppeDoto.html Giuseppe "Joe Adonis" Doto] 旧Geocities記事</ref>。1960年代初頭、ニューヨークマフィアの有志によりアドニスのアメリカ再入国のための政治工作が行われ、一旦政府に認められかけたが、司法長官[[ロバート・ケネディ]]に阻まれ、実現しなかった<ref name="a"/>。