「チェトニック」の版間の差分

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指導者[[ドラジャ・ミハイロヴィッチ]]に率いられ蜂起したチェトニックだが、一方でユーゴスラビア王国軍の負の面を有していた。山岳地帯での[[ゲリラ|ゲリラ活動]]が主であったにも拘らず、平地での正規戦用の[[戦略]]や[[戦術]]を重視しており、軍の構成や部隊編成も当然ながらその域を出なかった。また早い時期から内部が腐敗に染まり、規律にも欠け、不正規戦の遂行に欠かせない筈の地元住民の支持を得られなかった。
 
実際の軍事行動でも徹底的な掃討を仕掛けられるのを恐れてか本来の敵たる枢軸軍と積極的に戦おうとせず、同じユーゴスラビア系の[[クロアチア独立国]]の部隊と終りなき凄惨な戦闘を繰り返していた。さらに[[イギリス]]から支持されていたユーゴスラビア亡命政府の「'''反乱'''(パルチザン部隊の事)'''は許されるべきでない'''」という方針の下に、チェトニックと同じく枢軸側に対し武装抵抗を行っていたはずのチトーのパルチザン部隊と敵対し、攻撃を仕掛けていた。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]だっ米英と協調していた[[ソ連]]も亡命政府に肩入れし、チェトニック支援に回り、チトーのパルチザン部隊に対してはチェトニックとの統一すら迫った。
 
上述の通りチェトニックはユーゴスラビア亡命政府から強い支持を受けていたが、1941年[[11月]]からはナチスとその[[傀儡]]勢力である[[セルビア救国政府]]と協力関係に入り、チトーのパルチザン部隊と戦った。しかし、[[1943年]][[9月]]に[[イタリア王国|イタリア]]が[[降伏]]すると勢力的に衰退の一途を辿り、翌年には連合国からの支援も打ち切られ[[1945年]][[5月]]に崩壊。指導者であるミハイロヴィッチは崩壊後逃亡するが、[[1946年]][[3月]]に[[逮捕]]され、[[処刑]]された。