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与謝蕪村、讃岐への旅路時期の修正
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[[寛保]]2年([[1742年]])27歳の時、師が没したあと[[下総国]]結城([[茨城県]][[結城市]])の[[砂岡雁宕]](いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う[[松尾芭蕉]]の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて[[東北地方]]を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年([[1744年]])に雁宕の娘婿で[[下野国]]宇都宮([[栃木県]][[宇都宮市]])の[[佐藤露鳩]](さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
 
その後、[[丹後国|丹後]]、[[讃岐国|讃岐]]などを歴遊し42歳の頃[[京都]]に居を構えた。この頃'''与謝'''を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し一人娘'''くの'''を儲けた。51歳には妻子を京都に残して[[讃岐国|讃岐]]に赴き、多くの作品を手掛ける<ref>別冊太陽、与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人、平凡社、p.170、2012。</ref>。再び京都に戻った後、島原([[嶋原]])[[角屋]]で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。[[明和]]7年([[1770年]])には夜半亭二世に推戴されている。
 
[[京都市]][[下京区]]仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で[[心筋梗塞]]であったとされている<ref>山形大学名誉教授、杉浦守邦(公衆衛生学)の鑑定による。</ref>。[[辞世の句]]は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市[[左京区]]一乗寺の[[金福寺]](こんぷくじ)。