「サン・ファン・バウティスタ号」の版間の差分

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[[ファイル:Hasekura Travels.jpg|サムネイル|250px|航路と年号]]
[[ファイル:NicolasCardona1632.jpg|サムネイル|250px|スペインで1632年に刊行された本のアカプルコ湾に、日本の船が描かれており(図中のDの船)、1614年-15年に停泊していたサン・ファン・バウティスタ号でないかと見られている。]]
===第一回航海===
[[1613年]][[10月28日]](慶長18年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])に当時'''ノビスパン'''=新イスパニアと呼ばれていた[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]を目指して、仙台藩・陸奥国[[牡鹿郡]]月浦(つきのうら。現・宮城県石巻市月浦。{{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})から出航した。これを記念して月の浦港には、海軍[[元帥]][[東郷平八郎]]の石碑などが現存する。乗員180名(将軍下の[[侍]]:10名、仙台の侍:12名、日本人商人、水夫、家来:120名、イスパニア人・[[ポルトガル]]人:40名。フランシスコ会士ルイス・ソテロと[[セバスティアン・ビスカイノ]]便乗)。船は[[1614年]][[1月25日]](慶長18年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。支倉とソテロは[[ヨーロッパ]]へ向かった。
 
===第一回航海(月浦ーアカプルコ)===
約1年間の停泊の後、[[1615年]][[4月28日]](慶長20年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航し、[[1615年]][[8月15日]](慶長20年[[閏]][[6月21日]]浦賀に到着した。
[[1613年]][[10月28日]](慶長18年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])に当時'''ノビスパン'''=新イスパニアと呼ばれていた[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]を目指して、仙台藩・陸奥国[[牡鹿郡]]月浦(つきのうら。現・宮城県石巻市月浦。{{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})から出航した。これを記念して月の浦港には、海軍[[元帥]][[東郷平八郎]]の石碑などが現存する。乗員180名(将軍下の[[侍]]:10名、仙台の侍:12名、日本人商人、水夫、家来:120名、イスパニア人・[[ポルトガル]]人:40名。フランシスコ会士ルイス・ソテロと[[セバスティアン・ビスカイノ]]便乗)。船は北太平洋海流に乗って東進し、12月26日に北アメリカのメンドシナ岬を認めた。ここからカリフォルニア海流に乗って南下し、[[1614年]][[1月25日]](慶長18年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。支倉とソテロは[[ヨーロッパ]]へ向かった。
 
===第二回航海(アカプルコー浦賀)===
約1年間の停泊の後、[[1615年]][[4月28日]](慶長20年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航し、[[1615年]][[8月15日]](慶長20年[[閏]][[6月21日]])3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)9月30日、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して出航(船長:[[横沢将監]](しょうげん))。その航海中に約100名の水夫が亡くなった。
 
===第三回航海(浦賀ーアカプルコ)===
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]](元和4年)4月2日にアカプルコを出航し、[[1618年]](元和4年)8月10日にルソン(今の[[フィリピン]])のマニラに到着した。そこで[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされ、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明。
[[1616年]][[元和 (9月30本)|元和]](元和2年)9[[63020]])、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して浦賀を出航(船長:[[横沢将監]](しょうげん))。スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、[[向井将監]]派遣の船頭が同乗。その航海中に悪天候他で約100名の水夫が亡くなった。[[1617年]][[2月23日]](元和3年[[1月18日]])にカリフォルニアのロス・モリネスに到着した。
 
===第四回航海(アカプルコーマニラ)===
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]][[4月2日]](元和4年)4[[327]]) 横沢将監指揮の元でアカプルコを出航し、[[1618年]][[8月10日]](元和4年)8[[61020]])にルソン(今の[[フィリピン]])のマニラに到着した。そこで[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされ、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明。
 
===航海終了後===