「釧路郡」の版間の差分

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久摺郡、善報郡について
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江戸時代以前から[[明治時代]]初頭の交通について、陸上交通は、沿岸部沿いに[[渡島国]]の[[函館市|箱館]]から[[千島国]]方面に至る道の途上となっており、[[文化 (元号)|文化2年]]には西の[[白糠郡]]方面から釧路郡に至る道([[国道38号]]の前身)が、釧路郡から東の厚岸郡に至る道([[北海道道142号根室浜中釧路線|道道根室浜中釧路線]]の前身)も[[寛政]]11年から12年にかけて釧路 - 仙鳳趾(せんぽうし)間9里(35.3km)に馬の通行にも支障ない道が、[[文化 (元号)|文化5年]]に[[遠国奉行#箱館奉行(松前奉行)|箱館奉行]]の許可を受け蝦夷を雇った厚岸在住の士丹羽金助によって、厚岸 - 仙鳳趾間約5里半(21.6km)が開削されている。海上交通は、[[北前船]]の航路が開かれ[[釧路市|釧路]]に寄航することもあった。
 
[[江戸時代#江戸時代中期|江戸時代中期]]の[[寛延]]4年には後の釧路市城山に相当する地域に[[蝦夷]]([[アイヌ]])によって[[モシリヤチャシ]]が築造されている。[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、釧路郡域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属していた。国防のため[[寛政]]11年釧路郡域は[[天領]]とされた。[[厳島神社 (釧路市)|厳島神社]]はこの頃の創建である。[[文政]]4年に釧路郡域は一旦松前藩領に復したものの、[[安政]]2年再び天領となり[[仙台藩]]が警固をおこなった。[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後の[[1869年]]、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲して釧路郡が置かれた。郡名の決める際に[[松浦武四郎]]は国名を「[[釧路国]]」としておきながら「久摺(くすり)郡」を提案、範囲は「西をタノシケより東コンフイ番屋元川中界」とし、また「西コンブイより東アッケシ界モセウシ迄」を善報(せんぽう)郡を建てることも提案したが、久摺郡と善報郡を併せた範囲が釧路郡となった。善報郡は[[松浦武四郎]]が提案した中で却下された唯一の郡である
 
=== 郡発足以降の沿革 ===