「さいたま市」の版間の差分

[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]は現在のさいたま市域、なかでも浦和と大宮の発展に大きな影響を及ぼすことになる。この時期埼玉県では主要都市中心部で「耕地整理事業」の名による区画整理が始まっていたが、中でも早期に耕地整理事業が進み、震災の時点ですでに中心部付近に整備された碁盤状の街区を設けていた旧浦和町は震災被害も軽微で(死者は3名<ref>浦和市史 通史編Ⅲ</ref>)、壊滅した東京や横浜から人口が流入し、特に[[別所沼]]の周辺をはじめとする地域には画家をはじめとした文化人が移住した。彼らは「[[浦和画家]]」と呼ばれる文化人コミュニティーを形成し、文教都市、浦和の発展に寄与した。一方大宮ではやはり震災を契機として、大宮町・大砂土村境界部に東京・小石川から盆栽業者が集団移転し、盆栽村組合が設立されて厳格な景観に対する取り決めを行い、盆栽村が形成された。これら関東大震災後に浦和、大宮に花開いた文化は現在でも文化的遺産となっている。
 
[[1927年]](昭和2年)に[[宮脇梅吉]]が埼玉県知事に就任。浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏構想を打ち出した。だが、在任わずかで宮脇は他県に転出し実現しなかったが<ref name="gappeiki">『さいたま市誕生 浦和市・大宮市・与野市合併の記録』(2001)14 - 16頁</ref>、[[1931年]](昭和6年)に宮脇が再び埼玉県知事に就任。日進を加えて三町三村の合併による「'''大埼玉市構想'''」を強く提唱する<ref name="gappeiki"/>。しかし大宮町の負債総額が浦和町を大幅に上回っていたことから浦和町が合併に消極的であったといわれ<ref>『与野の歴史』(1988)228-229頁</ref>、合併は実現せず。ただ、[[1934年]](昭和9年)、市制施行より浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。また、浦和・大宮・与野・六辻・三橋の1市2町2村の上水道を取り扱う「'''埼玉県南水道組合'''」(後の埼玉県南水道企業団、現:[[さいたま市水道局]])が設立され「大埼玉市」構想の一部が実現した<ref name="gappeiki"/>。
 
[[1939年]](昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示する<ref name="gappeiki"/>。翌年[[1940年]](昭和15年)埼玉県が仲介し、大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意。しかし、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなる。11月に大宮町は交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた三橋・大砂土・宮原・日進の4村と合併し、同時に市制施行により大宮市が発足。[[1943年]](昭和18年)には、埼玉県知事の[[大津敏男]]が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。
[[1934年]](昭和9年)、市制施行により浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。
 
[[1939年]](昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示する<ref name="gappeiki"/>。翌年[[1940年]](昭和15年)埼玉県が仲介し、大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意。しかし、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなる。11月に大宮町は交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた三橋村・大砂土村・宮原村・日進村と合併し、同時に市制施行により大宮市が発足。[[1943年]](昭和18年)には、埼玉県知事の[[大津敏男]]が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。
 
[[太平洋戦争]]中は、埼玉県内を管轄する[[浦和連隊区]]司令部が置かれた。戦争末期の[[1945年]](昭和20年)には、日本の多数の都市がアメリカ軍の[[日本本土空襲|空襲]]を受けた。現さいたま市域でも、4月14日に[[浦和市]]と[[大宮市]]、5月26日に再び浦和市が空襲を受けて死傷者が生じ、また浦和への爆撃予告ビラが投下されるなどしたが、市街の大部分を焼失するような大規模空襲に遭うことはなかった<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0300000000/0322000000 国立公文書館デジタルアーカイブ「戦災概況図」]</ref>。県内最大の空襲は終戦当日の[[熊谷空襲]]であった。終戦後[[進駐軍]]の占領下になると[[埼玉会館]]に埼玉軍政部が置かれた。
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