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曹奐の没後も[[東晋|晋朝]]および[[宋 (南朝)|宋朝]][[冊封]]下の[[諸侯王]]として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王朝の下で陳留王を相続した。
 
曹奐の子の名は不明だが、曹奐が死んだ翌年、[[永興]]元年([[304年]])に西晋の成都王・[[司馬穎]]に[[九錫]]を下賜された際、陳留王(名不詳)が司馬穎に貂蝉・文衣・鶡衣を贈ったと『晋書』「[[恵帝_(西晋)|恵帝]]紀」にある。[[太寧 (東晋)|太寧]]3年([[325年]])、曹操の玄孫である[[曹勱]]が[[東晋]]によって陳留王に封じられた。[[升平]]2年([[358年]])に死去し、[[363年]]に子の[[曹恢]]が跡を継いだ。曹恢は[[太元 (東晋)|太元]]3年([[378年]])に死去し<ref>『[[晋書]]』「帝紀第八」。</ref>、太元8年([[383年]])に子の[[曹霊誕]]が跡を継いだ<ref>『晋書』「帝紀第九」。</ref>。曹霊誕は[[義熙]]4年([[408年]])に死去した<ref>『晋書』「帝紀第十」。</ref>。[[元熙 (東晋)|元熙]]2年([[420年]])、[[劉裕]]が東晋から禅譲を受けて宋を建国したが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王[[曹虔嗣]]が名を連ねている<ref name="anime">『[[宋書]]』「本紀第六」。</ref>。曹虔嗣は同年に死去し<ref>『宋書』「本紀第三」。</ref>、弟の[[曹虔秀]]が跡を継いだ。曹虔秀は[[大明 (南朝宋)|大明]]6年([[462年]])に死去し<ref name="anime"/>、子の[[曹銑]]が跡を継いだ。曹銑は[[元徽 (南朝宋)|元徽]]元年([[473年]])に死去した<ref>『宋書』「本紀第九」。</ref>。[[昇明]]3年([[479年]])、[[蕭道成]]が宋から禅譲を受け[[斉 (南朝)|斉]]となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王の[[曹粲]]が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた<ref>『[[南史]]』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『[[南斉書]]』には記述無し。</ref>。
 
== 脚注 ==