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'''イータロ・ガリボルディ'''(Italo Gariboldi, [[1879年]][[4月20日]] - [[1970年]][[2月3日]])は、[[イタリア]]の軍人。[[第二次世界大戦]]中の[[東部戦線 (第二次世界大独ソ)|東部戦線]]へのにおけるイタリア軍派遣部隊の司令官を務めた。
 
== 経歴 ==
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1939年から1941年までガリボルディは[[イタロ・バルボ]]の下で[[北アフリカ戦線]]で戦った。イタリアが第二次世界大戦に参戦した際、彼の率いる第5軍団は[[リビア]]とフランス領[[チュニジア]]の国境地帯にあった。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]が完了すると今度は彼の軍団は[[エジプト]]国境に移り第10軍の指揮下に入ることとなった。1940年12月に始まった[[コンパス作戦]]では病いのため戦線を離れたマリオ・ベルティ将軍の後任のジュゼッペ・テレラ将軍が戦死した後は第10軍の指揮も執った。1941年3月25日に[[ロドルフォ・グラツィアーニ]]の後任としてリビア[[総督]]になった。同年7月19日に[[エルヴィン・ロンメル]]に非協力的だった彼は[[エットーレ・バスティコ]]に職を譲った。
 
1942年から1943年に彼は[[かけて東部戦線]]へのイタリア派遣軍司令官を務め、[[スターリングラード攻防戦]]にも参加した。
 
1943年に[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、[[ピエトロ・バドリオ]]によって[[ベニート・ムッソリーニ]]が失脚し、[[イタリアの降伏|イタリアが降伏]]すると、彼は多くのイタリア軍人同様ドイツ軍の[[捕虜]]となった。そして裏切り者として糾弾されていたが、1944年に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって解放された。
 
1970年に[[ローマ]]で亡くなった死去。90歳であった
 
== 外部リンク ==
* [http://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/personaggi/gariboldi.htm Concise biography] {{it icon}}
 
 
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