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'''志鳥 栄八郎'''(しどり えいはちろう、[[1926年]][[1月24日]] - [[2001年]][[9月5日]])は日本の音楽評論家。
 
[[東京府]][[北豊島郡]][[日暮里町]](現・[[東京都]][[荒川区]][[日暮里]])で毛筆製造業者の八男として生まれる<ref>志鳥栄八郎『志鳥栄八郎自伝 嵐が奏でる』p.36</ref>。旧制駒込中学校(現・[[駒込中学校・高等学校]])在学中の同級生に[[大滝秀治]]がいる<ref>志鳥、p.98</ref>。文学と音楽に熱中して[[第一高等学校 (旧制)]]と[[慶應義塾大学]]予科の入試に失敗し<ref>志鳥、p.115-116</ref>、予備校生活を経て、[[1944年]]から[[旭電化工業]]に勤務<ref>志鳥、p.122</ref>。[[1945年]][[3月10日]]の[[東京大空襲]]で実家が焼失したため、[[福島県]][[石川郡]][[石川町]]に疎開<ref>志鳥、p.12</ref>。[[1945年]]5月、[[召集令状]]を受け、[[二等兵]]として[[相模原]]の通信第一連に入営<ref>志鳥、p.12-14</ref>。敗戦後に復員し、[[1946年]]1月から日本造船に勤務<ref>志鳥、p.147</ref>。[[1949年]]、[[旺文社]]に転じ、[[1954年]]から『高校時代』編集部に勤務<ref>志鳥、p.178</ref>。旺文社勤務のかたわら、[[1952年]]から『[[レコード芸術]]』([[音楽之友社]])に海外盤試聴記を連載するようになり、音楽評論の道に入る<ref>志鳥、p.181-182</ref>。[[1955年]]2月に旺文社を退社し、フリーとなる<ref>志鳥、p.198</ref>。
 
酒好きで胃腸が弱かったため、整腸剤エンテロ・ヴィオフォルムを常用していたが、原材料の[[キノホルム]]の副作用により[[1968年]]から難病[[スモン]]を患い、視力低下や身体の激痛、痺れに苦しんだ<ref>志鳥、p.268</ref>。[[1992年]]、クラシック音楽興隆会を設立し理事長に就任<ref>志鳥、p.386</ref>。晩年は[[胃]]の[[ポリープ]]、[[脳梗塞]]、硬膜下出血、[[腎不全]]などを患い<ref>志鳥、p.387</ref>、75歳で死去した。