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{{基礎情報 武士
'''堀田 正吉'''(ほった まさよし、[[元亀]]2年([[1571年]]) - [[寛永]]6年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]([[1629年]][[3月11日]]))は、[[江戸時代]]初期の[[旗本]]。[[堀田正秀]]の五男。母は[[浅野長一]]の娘。通称は、勘左衛門。別名、正利。妻は[[稲葉正成]]の娘・まん。子に[[堀田正盛]]、[[脇坂安利 (飯田藩嫡子)|脇坂安利]]、[[堀田正茂]]、[[大草高正]]妻、勝境院([[喜多見重勝]]妻)、[[水谷勝俊]]室。
| 氏名 = 堀田正吉
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]
| 生誕 = [[元亀]]2年([[1571年]])
| 死没 = [[寛永]]6年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]([[1629年]][[3月11日]])
| 改名 =
| 別名 = 正利、通称:勘左衛門
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[台東区]]の[[日輪寺 (台東区)|日輪寺]]
| 官位 =
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[織田信長]]→[[浅野長政]]→[[小早川隆景]]→[[小早川秀秋|秀秋]]→[[徳川氏]]
| 藩 =
| 氏族 = [[堀田氏]]
| 父母 = 父:[[堀田正秀]]、母:[[浅野長一]]娘
| 兄弟 = [[堀田正親 (安土桃山時代)|正親]]、[[堀田重保|重保]]、[[堀田則兼|則兼]]、[[堀田正行|正行]]、'''正吉'''
| 妻 = [[稲葉正成]]娘・まん
| 子 = [[堀田正盛|正盛]]、[[脇坂安利 (飯田藩嫡子)|脇坂安利]]、[[堀田正茂|正茂]]、[[大草高正]]室、<br/>勝境院([[喜多見重勝]]室)、[[水谷勝俊]]正室
| 特記事項 =
}}
 
'''堀田 正吉'''(ほった まさよし)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]、[[江戸幕府]][[旗本]]。
当初、[[織田信長]]、そして[[浅野長政]]に仕え、[[文禄]]元年([[1592年]])より、[[小早川隆景]]、次代の養子[[小早川秀秋]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]ののち、[[慶長]]7年([[1602年]])に秀秋が没すると、慶長10年([[1605年]])に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年([[1624年]])、[[福島正則]]が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子の正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。墓所は、東京都台東区日輪寺。
 
当初、[[織田信長]]、そして[[浅野長政]]に仕え、[[文禄]]元年([[1592年]])より、[[小早川隆景]]、次代の養子[[小早川秀秋]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]ののち、[[慶長]]7年([[1602年]])に秀秋が没すると、慶長10年([[1605年]])に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年([[1624年]])、[[福島正則]]が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子・[[堀田正盛|正盛]]の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。墓所は、東京都台東区日輪寺
妻のまんは、稲葉正成の妻の[[春日局]]の義娘にあたり、子の正盛は早くより将軍[[徳川家光]]に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、[[大名]]となり子孫は繁栄した。
 
のまんは、稲葉正成の妻の継室・[[春日局]]の義娘にあたり、子の正盛は早くより将軍[[徳川家光]]に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、[[大名]]となり子孫は繁栄した。
== 外部リンク ==
*[http://kotobank.jp/word/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%89 堀田正吉 - コトバンク]
 
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