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== 生涯 ==
===生い立ち===
[[1903年]](明治36年)[[12月12日]]、東京市[[深川区]]万年町(現在の東京都[[江東区]][[深川 (江東区)|深川]])に、父寅之助と母あさゑの次男として生まれた。兄新一、妹登貴、妹登久、弟信三の五人兄弟。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門分家である新七家の六代目。与右衛門は深川の[[肥料]]問屋「湯浅屋」を営んでいた<ref>[http://www.okumurashoji.co.jp/news/koutouku_2011.html 「江東区の農業と肥料の軌跡」奥村商事]</ref>。本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていた。<ref>{{Harvnb|古賀重樹、「1秒24コマの美」、日本経済新聞出版社、p81|2010|p=81}}</ref>安二郎は明治小学校附属明治幼稚園から1910年に東京市立深川区明治[[尋常小学校]](現在の[[江東区立明治小学校]])に進んだ。
 
1913年(大正2年)、小津一家が父の郷里である[[松阪市|松阪]]に移ったため、小津安二郎(以下小津)は松阪町立第二尋常小学校(現在の[[松阪市立第二小学校]])に編入した。1916年(大正5年)、小学校を卒業して三重県立第四[[旧制中学校|中学校]](現在の[[三重県立宇治山田高等学校]])へ進学し、寄宿舎に入る。このころ初めて映画と出会った。その中でも特に小津の心を動かした作品は[[1917年]]に公開されたアメリカ映画『{{仮リンク|シヴィリゼーション_(映画)|en|Civilization (film)|label=シヴィリゼーション}}』(監督[[トーマス・H・インス]])であった。このころの小津は絵が上手で、[[ヴェスト・ポケット・コダック|ベス単]]や[[ブローニー]]といった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だったという。<ref>{{Harvnb|千葉伸夫、『小津安二郎と20世紀』、国書刊行会、|2003、p30|p=30}}</ref>[[旧制高等学校|高校]]進学を控えた中学五年の夏、小津は問題行動を起こしたとされて退寮処分となり、自宅から通学することになる。
 
[[1921年]](大正10年)、商業の道に進んでほしい両親の期待にこたえるべく[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]](現在の[[神戸大学]])を受験したが落第した。神戸([[神戸キネマ倶楽部]]ほか)や名古屋の映画館や地元の[[神楽座]]に通って、多くの映画を観たのもこの時期である。翌年の[[1922年]](大正11年)には[[三重師範学校]](現在の[[三重大学]][[教育学部]])を受験したが、これも落第。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」<ref>{{Harvnb|千葉、p44伸夫|2003|p=44}}</ref>と考え、小津は三重県飯南郡(現在の[[松阪市]][[飯高町]])にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に[[代用教員]]として赴任した。小津の教員生活はわずか1年で終わったが、山村の児童たちに強烈な印象を残した。<ref>小津の代用教員時代については柳瀬才治、『オーヅ先生の思い出』(1995年)などを参照。</ref>教え子だった柳瀬才治は、「当時としては新しかったローマ字を教えてくれたり、[[マンドリン]]を弾いていたりして忘れられない先生だった」<ref>{{Harvnb|千葉、p45伸夫|2003|p=45}}</ref>と当時を振り返っている。
 
=== 映画の世界へ ===
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[[1930年]](昭和5年)には『[[結婚学入門]]』(現存せず)、『[[朗かに歩め]]』(現存)、『[[落第はしたけれど]]』(現存)、『[[その夜の妻]]』(現存)、『[[エロ神の怨霊]]』(現存せず)、『[[足に触った幸運|足に触つた幸運]]』(現存せず)、『[[お嬢さん_(1930年の映画)|お嬢さん]]』(現存せず)の7本を作りあげ、これが1年間製作の最高本数になる。
 
翌[[1931年]](昭和6年)になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、翌年の[[1932年]](昭和7年)は4本の製作にとどまっている。この時代の小津は「[[小市民映画]]」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされており、批評家からの評価もすでに高かった。蒲田撮影所長の城戸四郎も小津作品の特徴を『人生の真実を小市民の生活に発見するもの』と高く評価している。<ref>{{Harvnb|千葉、p73伸夫|2003|p=73}}</ref>
 
[[1933年]](昭和8年)、『[[東京の女 (映画)|東京の女]]』、『[[非常線の女]]』、『[[出来ごころ]]』の3本を製作。この年、小津は気鋭の新進監督[[山中貞雄]]と京都で知り合い、意気投合する。しかし[[1934年]](昭和9年)4月2日、父寅次郎が狭心症で急逝した。このころ、国内ではトーキー映画が増えていたが、小津は拙速なトーキー化には慎重な姿勢を見せていた。しかしトーキーの研究と準備は続けていた。こうして[[1936年]](昭和11年)、小津初のトーキー作品が製作される。外国向けに歌舞伎の演目を映像化したドキュメンタリー映画『[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]』である。トーキーの『[[一人息子_(映画)|一人息子]]』もこれと平行して製作された。これらに先立って公開された『[[大学よいとこ]]』は小津の最後のサイレントであり、現存しない最後の作品になっている。
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1939年、[[内務省 (日本)|内務省]]の指示で[[映画法]]が成立し、映画を製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、映画が国家に完全に統制されることになった。小津は復帰第1作として『彼氏南京に行く』というシナリオを執筆したが、これが映画法の事前検閲を通らず、映画化を断念した(このシナリオは戦後に仕立て直されて『[[お茶漬の味]]』になる)。小津の作品ですら検閲ではねられたこの事件は、映画界に衝撃を与えた。小津はめげずに[[1941年]](昭和16年)に『[[戸田家の兄妹]]』をつくった。『戸田家の兄妹』は小津作品として初めての大ヒットだった。小津は1932年から1934年まで作品が3年連続[[キネマ旬報ベストテン]]第1位となるなど批評家からの評価は高かったが、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかった。次の作品『[[父ありき]]』(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。小津の次回作の公開は1947年(昭和22年)まで待つことになるが、『父ありき』ではそれまでも小津作品にたびたび出演してきた[[笠智衆]]が初めて主演しており、この時点ですでに戦後の小津作品の骨格が完成していたことがうかがえる。
 
日米開戦後、小津は松竹が託されたビルマ作戦の映画化(『[[ビルマ作戦 遥かなり父母の国]]』)にあたったが、完成しなかった。[[1943年]]6月、[[軍報道部映画班]]に徴集されたて福岡の[[福岡第一飛行場|雁ノ巣飛行場]]から監督の[[秋山耕作]]、シナリオ作家の[[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]と共に軍用機で[[シンガポール]]へ向かった。「小津組」のカメラマン[[厚田雄春]]も後を追って到着した。シンガポールでは『[[オン・トゥー・デリー]]』という仮題のつけられた[[チャンドラ・ボース]]の活躍を映画化したものの製作に取り掛かったが、これもやはり完成しなかった。小津はシンガポールで終戦を迎えるが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたという。その中には『[[嵐が丘_(1939年の映画)|嵐が丘]]』、『[[北西への道]]』、『[[レベッカ_(映画)|レベッカ]]』、『[[わが谷は緑なりき]]』、『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』、『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』、『[[市民ケーン]]』などが含まれていた。<ref>{{Harvnb|千葉、p217伸夫|2003|p=217}}</ref>
 
終戦後はしばらくの抑留生活を経て、[[1946年]](昭和21年)2月11日に[[広島港]]へ上陸して帰国した。
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[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|right|『東京物語』のロケ。最右が小津、左前方は原節子(1953年)]]
 
復員した小津は高輪の実家に戻ったが母はいなかった。母あさゑは周囲の人が疎開を進めても「安二郎はこの家に戻ってきますから」といって頑として聞かなかったが、昭和20年3月10日の空襲のすさまじさに、さすがに疎開を決意、千葉県の野田市に住む妹登久の嫁ぎ先山下家に世話になっていた<ref>{{Harvnb|千葉、p228伸夫|2003|p=228}}</ref>。小津は野田におもむき、借家を借りて母と暮らした。しばらくは仕事を離れたかった小津だったが、会社の度重なる催促に重い腰を上げて戦後第1作『[[長屋紳士録]]』([[1947年]](昭和22年))をつくりあげた。次に[[高峰秀子]]を迎えて『月は上りぬ』の製作に取り掛かったが、高峰らの予定が合わずに延期になる。
 
そこで[[志賀直哉]]の「[[暗夜行路]]」をモチーフにした<ref>{{Harvnb|千葉、p237伸夫|2003|p=237}}</ref>作品『[[風の中の牝どり|風の中の牝{{JIS2004フォント|&#38622;}}]]』([[1948年]](昭和23年))の製作に取り組んだ。(小津は戦後、志賀直哉と知己を得ていた。)しかし、『風の中の牝{{JIS2004フォント|&#38622;}}』はあまり評判が良くなく、自身でも「あまりいい失敗作ではなかった」<ref name="kinema19601210"/>と振り返っている。この作品の失敗は、小津の持ち味である現実を超えた端正な美しさの表現が、敗戦後の生活の現実をリアルに描く方向では生きないことを示すものであった。これは脚本家の野田高梧も指摘したところであった。そのため、小津は以後の全作品で野田と共同で執筆することになる。「世界に類のない小津の厳格で独創的な技法は「晩春」で完璧の域に達し、以後、一作ごとにさらに磨きが加えられていくことになる。」(佐藤忠男、『日本映画史』第2巻、岩波書店、1995年、p281)
 
[[1949年]](昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品『[[晩春 (映画)|晩春]]』を発表。この作品はさまざまな点(独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用)で『小津調』の完成形を示すと共に、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。以降、小津は「一年一作」と呼ばれる寡作監督になるが、逆に一本一本が徹底的に作りこまれ、完成度が高い作品となっていく。[[1950年]](昭和25年)、[[新東宝]]で『[[宗方姉妹]]』を撮り、ついで[[1951年]](昭和26年)の『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』が[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞を受賞、名監督としての評価を決定的なものとした。
 
小津は戦後、普段は母と野田で暮らし、仕事が忙しくなると大船撮影所本館の個室で寝起きするという生活を送っていたが、[[1952年]](昭和27年)に大船撮影所で火災があったため、5月に母を連れて鎌倉山之内に転居。そこを終の棲家とする。この年、野田と練ったシナリオが完成せず、仕方なく戦前に検閲ではねられた『[[お茶漬の味]]』を改稿して公開までこぎつけた。小津は同作について自身で『なんとか一年一作を守るために糊塗したもので後味が悪い』と率直に述べている。<ref>{{Harvnb|千葉、p276伸夫|2003|p=276}}</ref>このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが『[[東京物語]]』([[1953年]](昭和28年))である。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、代表作となった。
 
1953年(昭和28年)、日本で本格的なテレビ放送が開始され、ハリウッドなどの映画界もカラー化してシネマスコープ、ワイドスクリーンなどさまざまな新機軸を打ち出していたが、小津はひたすら静観の構えだった。[[1954年]](昭和29年)から[[1955年]](昭和30年)にかけて、小津はひとつの事件に巻き込まれる。それはかつて自分がシナリオを書いて映画化を企画した作品『[[月は上りぬ]]』に関することであった。小津はこれを、映画監督を志していた女優[[田中絹代]]の監督作に譲ったが、いざ製作が始まると[[日活]]と[[五社協定]]の各社がもめるなど製作が難航した。小津は徹底して田中絹代を応援し、筋を通す形で松竹を退社するが、かえって人間的信頼を高めた。<ref>{{Harvnb|田中真澄編、『小津安二郎戦後語録集成』、フィルムアート社、|1989年、p111|p=111}}</ref>
 
1955年(昭和30年)[[日本映画監督協会]]の理事長に就任。[[里見とん|里見{{JIS2004フォント|&#24372;}}]]、[[大佛次郎]]、[[菅原通済]]ら鎌倉在住の文化人との交遊が深まる。『月は上りぬ』の一件もあって次の作品である『[[早春 (映画)|早春]]』は公開が[[1956年]](昭和31年)となった。
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===アメリカ映画の影響===
小津作品というと一般的に伝統的な日本文化の世界と捉えられがちだが、初期の小津はハリウッド映画(特に[[エルンスト・ルビッチ]]や[[ウィリアム・A・ウェルマン]])の影響を強く受けた作品を撮っている。たとえば『[[非常線の女]]』([[1933年]])には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されている。<ref>佐藤忠男、『日本映画史』第1巻、岩波書店、1995年、p236</ref>佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや不純なものを全て取り去り、美しいものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。<ref>佐藤忠男、『日本映画史』第1巻、岩波書店、1995年、p51</ref>佐藤の指摘するとおり、小津は画面から一切の不純物を排除した。小津自身、「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。映画ではそれが美しくとりあげられなくてはならない」と述べている。<ref>{{Harvnb|松竹編、『小津安二郎新発見』、講談株式会|1993年、p6|p=6}}</ref>
 
=== 美しさへのこだわり ===
小津は撮影に臨んでかならず自分自身でカメラを覗き込んで厳密に構図を決定していた。その構図は計算しつくされたものであった。食事の場面で一見無造作に置かれているようにみえる食器類も形を含めてすべてバランスを考えていた。カラー映画の時代になると、小津は色調にもこだわり、形の面でも色の面でも計算しつくされた画面をつくりあげた。日本画家の[[東山魁夷]]は、『秋日和』を評して「構図の端正、厳格な点と美しい色の世界にひかれる」と語っている。<ref>{{Harvnb|古賀重樹、『1秒24コマの美』、日本経済新聞出版社、pp71|2010|p=71}}</ref>
晩年のカラー作品では、従来の構図の完璧さに加えて、小津は二つの点にこだわっている。一つは画面のアクセントとしてなんらかの形で「赤」を入れるということ、そして書画骨董の類にできる限り本物の美術品を使うということである。たとえば『秋日和』では、[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、[[東山魁夷]]の風景画など全て実物が用いられている。<ref>{{Harvnb|古賀重樹、『1秒24コマの美』、日本経済新聞出版社、pp66-71|2010|p=66}}</ref>この点に関して小津は「たとえば床の間の軸や置物が筋の通った品物といわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのでは、私の気持ちが変わってくる。出演する俳優もそうだろう。また、人間の眼はごまかせても、キャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るのである」と断言している。<ref>{{Harvnb|松竹株式会社|1993|p=11}}</ref>また、美しさのこだわりから小津安二郎新発見』は戦後の作品でも焼け跡や汚い風景講談社、1993年、p11服装は画面にいっさい入れなかった。吉田喜重は小津作品には軍服を着た人物が一切登場しないことを指摘している。<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=117}}</ref>
 
晩年のカラー作品では、従来の構図の完璧さに加えて、小津は二つの点にこだわっている。一つは画面のアクセントとしてなんらかの形で「赤」を入れるということ、そして書画骨董の類にできる限り本物の美術品を使うということである。たとえば『秋日和』では、[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、[[東山魁夷]]の風景画など全て実物が用いられている。<ref>古賀重樹、『1秒24コマの美』、日本経済新聞出版社、pp66-71</ref>この点に関して小津は「たとえば床の間の軸や置物が筋の通った品物といわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのでは、私の気持ちが変わってくる。出演する俳優もそうだろう。また、人間の眼はごまかせても、キャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るのである」と断言している。<ref>松竹編、『小津安二郎新発見』、講談社、1993年、p11</ref>
 
また、美しさのこだわりから、小津は戦後の作品でも焼け跡や汚い風景、服装は画面にいっさい入れなかった。吉田喜重は小津作品には軍服を着た人物が一切登場しないことを指摘している。<ref>古賀重樹、『1秒24コマの美』、日本経済新聞出版社、p117</ref>
 
=== 完璧な演技指導 ===
小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」<ref>{{Harvnb|吉田喜重、『小津安二郎の反映画』、岩波書店、|1998|p=}}</ref>と述べている。
 
1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていた[[ヘンリー小谷]](小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大きな影響を与えた。小津は俳優の配置やカメラの動きだけでなく、俳優が微妙で正確な動作を完璧に行うことを求めた。<ref>佐藤忠男、『日本映画史』第1巻、岩波書店、1995年、pp235-236</ref>また、セリフの口調やイントネーションなどは小津が実際に演じて見せて、俳優に厳密にそのとおり演じさせた。少しでも俳優の動きと小津のイメージにずれがあると、際限なくリハーサルが繰り返された。<ref>佐藤忠男、『日本映画史』第1巻、岩波書店、1995年、p370 </ref>たとえば『麦秋』での[[淡島千景]]は、原節子と話す場面で小津からNGを出され続け、20数回まで数えてその後は回数を忘れた<ref name="1byou24koma">{{Harvnb|古賀重樹、『1秒24コマの美』、日本経済新聞出版社、p108|2010|p=108}}</ref>同じよう『秋刀魚の味』で[[岩下志麻]]も『秋刀魚の味』の巻尺を手で回す場面で何度やってもOKが出なかった。小津が『もう一回』『もう一回』といい続け、岩下はNGを80回まで数えて後はわからなくなったという。<ref>{{Harvnb|松竹編、『小津安二郎新発見』、講談株式会|1993年、p72|p=72}}</ref>
 
また小津は自分の中でイメージが完成されていただけに、俳優が自由に「演技」をすることを好まなかった。笠智衆は『父ありき』の撮影前に小津から「ぼくの作品に表情はいらないよ。表情はなしだ。能面で行ってくれ」といわれたと述べている<ref>笠智衆、『俳優になろうか 私の履歴書』、日本経済新聞社、1987年、p113</ref>。
 
小津のもとで働いていたカメラマンの[[川又昴]]は俳優たちを自らの構図どおりに厳格に動かす小津のやり方に疑問を感じ、小津のもとを離れていった。彼は「[[日本ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]」の一翼を担うことになるが、後に小津から「おれだって蒲田のヌーヴェルヴァーグだったんだぞ」といわれたことを忘れることができなかった<ref name="1byou24koma"/>
 
[[篠田正浩]]は、[[原研吉]]がかつて「(小津は)初めから自分の世界がある。演繹的にはめ込んでいく。だから小津安二郎の映画は人間を生かさない。昆虫採集のようだ。」と言ったことを覚えており、小津はそのやり方ゆえに弟子が育たない結果になったと見ている。<ref>山田太一編、『人は大切なことも忘れてしまうから』、マガジンハウス、p25</ref>
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よく混同されることだが、「ロー・ポジション(ロー・ポジ)」は「ロー・アングル」と同義ではない。前者はカメラの位置を下げることで、後者はカメラの仰角を上げる(アオル)ことをさしている。小津はカメラをほとんどアオらなかった。カメラを低い位置にすえて、ごくわずかにレンズを上にあげていた。基本的にはカメラを大人の膝位置より低く固定し、50ミリの標準レンズでとった。小津はすべての場面において、カメラの位置を必ず自身で設定した。スタッフは「ロー・ポジ」用に特別に極低の三脚を作り、小津の好きな赤に塗って「蟹」と呼んだ。(「蟹」は金属製、それ以前に用いられた木製のものは「お釜の蓋」と呼ばれていた。)
 
小津が愛したこの「ロー・ポジ」の意味と起源については「子供の視点」であるとか、「客席から舞台を見上げる視点」とか「畳の縁の黒さを目立たせないため」など諸説ある<ref>『小津安二郎 名作映画集DVD+BOOK 01 東京物語』解説本、小学館、2010年、p18</ref>が、小津自身は「『肉体美』(1928年)で、バーのセット内での撮影時、少ないライトをあちこち動かしながら撮影をしていたら、カットごとに床の上のあちこちにコードが動く。いちいち片付けたり、映らないようにするのも手間なので、床が映らないよう低い位置からカメラを上向けにした。「出来上がった構図も悪くないし、時間も省けるので、これから癖になり、キャメラの位置もだんだん低くなった。しまいには「お釜の蓋」という名をつけた特殊な三脚をたびたび使うようになった」<ref>東京新聞1952年12月19日「小津安二郎芸談」({{Harvnb|田中編、『小津安二郎 戦後語録集成』、フィルムアート社、|1989年、p161)|p=161}}</ref>と述べている。
 
=== 「映画の文法」破り ===
小津調の特徴である人物を向き合う人物を正面からとらえる「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない。通常、映画の「文法」にそった映像では切り返しのショットでカメラが二人の人物を結ぶ[[イマジナリーライン]]を超えることはない。しかし、小津は意図的にこの「文法」を無視した。少なくとも中期以降の作品においては、切り返しショットがイマジナリーラインを超えて真正面から捉える手法の大原則が破られることはなかった。こうした映画文法の意図的な違反が、独特の時間感覚とともに作品に固有の違和感を生じさせており、特に海外の映画評論家から評価を得ている。
 
もともと、この「文法破り」は日本間での撮影による制約から生まれたという。すなわち、日本間では座る位置がほとんど決まっている上に、狭い和室ではカメラの動く範囲が窮屈になる。その上でこのルールに従うと背景は床の間、ふすま、縁側などに限定され、自分の狙うその場の雰囲気が表現できない。「そうしたことから試みたのっぴきならない違法」<ref>{{Harvnb|小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしかつくらない』(人生のエッセイ)日本図書センター、|2010年、p56|p=56}}</ref>だという。
 
小津自身はさらに次のように述べている。「たとえば、こういう文法がある。AとBが対話をしているところを、交互に、クローズ・アップでとるときに、カメラはAとBとを結ぶ線をまたいではならないというのだ。つまりABを結ぶ線から、少し離れたところからAをクローズ・アップする。すると画面に写ったAの顔は左向きになっている。こんどは、ABを結ぶ線の同じ側で、前とは対照的な位置にカメラを移してBをクローズ・アップする。すると、Bは画面では右向きとなるわけだ。両者の視線が客席の上で交差するから、対話の感じが出るというわけだ。もし、ABを結ぶ線をまたいだりすると、絶対に対話でなくなるというのである。しかし、この“文法”も、私に言わせると何か説明的な、こじつけのように思えてならない。それで私は一向に構わずABを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。すると、Aも左を向くし、Bも左を向く、だから、客席の上で視線が交るようなことにはならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらく、こんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出して、もう三十年になる。それで私の友人たちー故山中貞雄とか稲垣浩、内田吐夢などーは、どうも私の映画は見にくいと言う。撮り方が違っているからである。では終りまで見にくいかと聞くと、いや初めのうちだけで、すぐに慣れるという。だから、ロング・ショットで、ABの位置関係だけ、はっきりさせておけば、あとはどういう角度から撮ってもかまわない。客席の上での視線の交差など、そんなに重要なことではないようだ。どうも、そういう“文法”論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきものではないだろうか」。<ref>『芸術新潮』昭和34年4月号(田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21 (1946) 年 - 昭和38 (1963) 年』フィルムアート社、1993年、pp332-337)。</ref>
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[[パン (撮影技法)|パン]]についても『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』の撮影中に、小津、[[岩崎昶]]、飯田心美の鼎談が『[[キネマ旬報]]』(No.212 1958年8月下旬号“酒は古いほど味がよい 「彼岸花」のセットを訪ねて小津芸術を訊く”)で行われ、独特のカメラワークについて論じた中で、小津は「絶対にパンしない」と言い、次のような「名言」をいう(太字は引用者)。<BLOCKQUOTE>性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、'''なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う'''から、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。</BLOCKQUOTE>
 
小津は「映画の文法」というものに対して批判的で、「機械の機能が画面に現れただけのフェイド・イン、フェイド・アウト、オーバーラップをまるで文法のごとく考えるのはじつに無定見な話だ。文法でもなんでもない、機械の属性だ」と言い切っている。<ref>{{Harvnb|松竹編、『小津安二郎新発見』、講談株式会|1993年、p14|p=14}}</ref>
 
== 評価 ==
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しかし映画研究者の[[佐藤忠男]]が「(1950年代後半)俳優たちにそのもっとも美しい姿を表出させる演出力において、この頃、小津安二郎は比類のない高さに達していた。年配の批評家たちや観客はそれを無条件に享受した。しかし若い批評家たちや観客は必ずしもそうではなかった。彼らには小津が苛烈な現実社会とは殆んど無縁なブルジョア的な趣味的な世界に遊んでいると見えた。」(佐藤忠男、『日本映画史』第3巻、岩波書店、1995年、p21)と述べているように、昭和30年代を過ぎると、特に若い世代から小津の作品の「古臭さ」に批判が行われるようになった。
 
「[[日本ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]」と呼ばれた一群の新進監督たち([[大島渚]]や[[篠田正浩]]や[[吉田喜重]]など)も小津を旧世代の監督の代表と見て批判的であった。吉田喜重は、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判したことがあった。すると1963年の松竹監督会新年会の宴席で、上座にいた小津が末席にいた吉田の前にやってきて黙って酒を注いだ。二人がほとんど言葉を交わすことなくひたすら酒を注ぎあったので、宴席は通夜のようになってしまった。そのうち酔いのまわった小津は吉田に、「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」といったという。後に吉田は小津の可愛がった女優岡田茉莉子と結婚し、死の床についていた小津のもとを訪ねた。吉田は小津の変わり果てた姿に言葉を失ったが、小津は帰り際の吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と口ずさむように言ったという。<ref>{{Harvnb|吉田喜重、『小津安二郎の反映画』、岩波書店、|1998年、pp1|pp=1-5}}</ref>
 
 
海外での評価については、小津の存命中に『東京物語』への英国サザーランド賞の授与(1959年)があったとはいえ、それほど知られているとはいえなかった。しかし、没後ヨーロッパを中心に小津作品への評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとしてもてはやされるようになった。著名な映画監督、評論家たちも小津映画への賞賛を口にするようになった。現在では小津安二郎は[[溝口健二]]、[[黒澤明]]らと並んでもっとも国際的に支持される日本の映画監督の一人となっており、『[[東京物語]]』はヨーロッパで特に人気が高い。
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** 『健児生まる』(1942年1月1日-5日、[[大阪劇場]]) - 演出
 
== 資料・参考文献 ==
===シナリオ・日記・発言等 ===
*井上和男 編 『小津安二郎作品集』(全4巻)立風書房・1983.9〜1984.3
*田中真澄 編 『小津安二郎全発言 1933~1945』泰流社・1987.6
* {{Citation|和書|author=田中真澄 編 『|translator=|year=1989|title=小津安二郎戦後語録集成〜昭和21(1946)年〜昭和38(1963)年|publisher=フィルムアート社・1989.5|isbn=978-4845989782}}
*田中真澄 編 『全日記・小津安二郎』フィルムアート社・1993.12 ※外箱入り200部限定版あり
*田中真澄 編 『小津安二郎「東京物語」ほか』みすず書房(大人の本棚)・2001.12
*井上和男 編 『小津安二郎全集』新書館・2003.4
* {{Citation|和書|author=小津安二郎 |translator=|year=2010|title=小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』日本図書センター(人生のエッセイ)・2010.5|publisher=日本図書センター|isbn=978-4284700382}}
*「蓼科日記」刊行会 編 『蓼科日記抄』小学館スクウェア・2013.7
 
===研究・資料等 ===
* {{Citation|和書|author=千葉伸夫|translator=|year=2003|title=小津安二郎と20世紀|publisher=国書刊行会|isbn=978-4336046079}}
* {{Citation|和書|author=古賀重樹|translator=|year=2010|title=1秒24コマの美〜黒澤明・小津安二郎・溝口健二|publisher=日本経済新聞出版社・2010.11|isbn=978-4532167639}}
* {{Citation|和書|author=松竹株式会社|translator=|year=1993|title=小津安二郎新発見(講談社+α文庫)|publisher=講談社|isbn=978-4062566803}}
* {{Citation|和書|author=吉田喜重|translator=|year=1998|title=小津安二郎の反映画(岩波現代文庫)|publisher=岩波書店|isbn=978-4006021870}}
* {{Citation|和書|author=升本喜年|translator=|year=2013|title=小津も絹代も寅さんも 城戸四郎のキネマの天地|publisher=新潮社|isbn=978-4103333210}}
 
*佐藤忠男 『小津安二郎の芸術』朝日新聞社・1971.1/朝日選書(上下)・1978.12/朝日文庫(『完本小津安二郎の芸術』)・2000.10
*小津安二郎・人と仕事刊行会 編 『小津安二郎 人と仕事』蛮友社・1972.8 ※限定版
621 ⟶ 625行目:
*デヴィッド・ボードウェル 『小津安二郎 映画の詩学』青土社・1993.2/新装版・2003.7
*都築政昭 『小津安二郎日記〜無常とたわむれた巨匠』講談社・1993.9/ちくま文庫・2015.10
*松竹株式会社 編 『小津安二郎新発見』講談社・1993.9/講談社+α文庫・2002.12
*小津安二郎生誕90年フェア事務局 編 『小津安二郎映畫讀本~「東京」そして「家族」』松竹映像版権室・1993.9/新装改訂版・2003.11
*井上和男 編 『陽のあたる家~小津安二郎とともに』フィルムアート社・1993.10
*キネマ旬報編集部 編 『小津安二郎集成2』キネマ旬報社・1993.10
*石坂昌三 『小津安二郎と茅ケ崎館』新潮社・1995.6
*[[吉田喜重]] 『小津安二郎の反映画』岩波書店・1998.5/岩波現代文庫・2011.6
*貴田庄 『小津安二郎のまなざし』晶文社・1999.5
*園村昌弘 原作・中村真理子 作画・小津家 監修 『小津安二郎の謎』小学館(Big spirits comics special 日本映画監督列伝1)・1999.11
644 ⟶ 646行目:
*貴田庄 『監督小津安二郎入門40のQ&A』朝日新聞社(朝日文庫)2003.9
*中澤千磨夫 『小津安二郎・生きる哀しみ』PHP研究所(PHP新書)・2003.10
*千葉伸夫 『小津安二郎と20世紀』国書刊行会・2003.11
*貴田庄 『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』青春出版社(プレイブックスインテリジェンス)・2003.12
*蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重 編著 『国際シンポジウム小津安二郎~生誕100年記念「Ozu 2003」の記録』朝日新聞社(朝日選書753)・2004.6
651 ⟶ 652行目:
*[[中村明]] 『小津の魔法つかい〜ことばの粋とユーモア』明治書院・2007.4
*[[中野翠]] 『小津ごのみ』筑摩書房・2008.2/ちくま文庫・2011.4
*古賀重樹 『1秒24コマの美〜黒澤明・小津安二郎・溝口健二』日本経済新聞出版社・2010.11
*藤田明 『平野の思想 小津安二郎私論』ワイズ出版・2010.12
*與那覇潤 『帝国の残影〜兵士・小津安二郎の昭和史 』NTT出版・2011.1