「清原家衡」の版間の差分

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[[出羽清原氏|清原氏]]の内紛である[[後三年の役]]において、はじめは異父兄の清衡と結んで清原氏の惣領である兄の真衡と争い、真衡の死後は清衡と争う。
 
家衡の父武貞は[[前九年の役]]が終わった後、[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]一門の有力豪族であった[[藤原経清]](敗戦後に処刑)の妻を自らの妻とした。この女性は前九年の役で戦死した安倍氏の当主頼時の娘であり、経清との間に生まれた清衡がいた。清衡は武貞の養子となり、さらにその後、武貞とその女性の間に清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。この事実から前九年の役が終結した[[1062年]]([[康平]]5年)以降に家衡は生まれたと推測できる
 
家衡は、清原氏の当主である真衡が惣領権を強化して、一族の家人化を進めたことに反発を抱いており、[[1083年]]([[永保]]3年)、真衡が一族の[[吉彦秀武]]討伐のために[[出羽国]]に出陣した際に、秀武の誘いにより真衡の背後を突くために清衡とともに挙兵した。だがそれを知った真衡が軍を返して家衡・清衡を討とうとしたため、いったん本拠に退いている。