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直接民衆に説いて[[念仏]]・[[誦経]]などの行為を勧める者や[[寺院]]・[[仏像]]などの新造あるいは修復・再建のために[[浄財]]の寄付を求める者がいたが、[[中世]]以後には後者の行為を指すことが一般的となった。
 
なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では[[神仏習合]]によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『勧請』</ref>。勧請は神道神社で使われることが多く、[[分霊]]ともいう。
 
== 概説 ==
=== 勧進とは ===
'''勧進'''とは、寺院の建立や修繕などのために、[[信者]]や有志者に説き、その費用を[[奉納]]させることをいう。そのことにより人びとを[[仏道]]に導き入れ、善行をなさしめるのが元来の意であったが、のちには寄付を集める方法として興行を催し、観覧料の収入をもってこれに当てるという意味としても広く用いられた。[[中世]]においては、[[橋]]や[[道路]]の修理・整備から[[官寺]]([[鐘]]や仏像、[[写経]]をふくむ)の建設や修造など、本来は[[朝廷]]([[国家]])や[[国衙]]([[地方]][[行政機関]])がおこなうべき[[公共事業]]も、勧進によってなされた。勧進をおこなう者は、'''勧進帳'''(後述)をたずさえて諸国を遍歴したり、橋のたもとや寺社の[[門前]]、[[関所]]などで「一紙半銭」<ref group="注">「土地の寄付証文とわずかのお金」という意味。庶民の浄財のこと。</ref>の寄付を募った。
 
=== 勧進聖らの活動 ===
初期の勧進は主として'''勧進聖'''(かんじんひじり)・'''勧進僧'''(かんじんそう)・'''勧進上人'''(かんじんしょうにん)と呼ばれる僧侶によって担われていた。彼らは各地を遍歴しながら説法を行い、人々から[[銭]]や[[米]]の寄付を受けた。彼らは必要経費のみをそこから受け取り、残りを事業達成のための寄付に充てた。こうした勧進聖としては、[[奈良時代]]の[[行基]]や[[平安時代]]の[[空也]]・[[行円]]などが著名である。また、[[尼]]の中にも勧進活動に加わるものもおり、これを'''勧進比丘尼'''(かんじんびくに)と呼ぶ。ただし、勧進比丘尼の中には[[神仏習合]]の影響を受けて尼の形態をした<ref group="注">[[朝廷]]が定めた[[戒壇]]では女性の[[授戒]]は認められておらず、[[鎌倉時代]]に真言律宗が独自の戒壇を樹立して尼の授戒を許可するまで、尼は正式な僧侶としていなかった。そのため、尼の身分規定も曖昧であった。</ref>[[巫女]]なども含まれており、また[[近世]]に入ると[[遊女]]的な行いをする者も存在したため、純粋な尼とは言えない者が多かった。それでも[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[清順]]のように勧進活動によって寺院を再興した勧進比丘尼も少なからずおり、その活動も評価されるものであった。
 
=== 勧進の普及 ===
こうした勧進があまねく庶民に受容され、広く社会に浸透していくのは、およそ[[12世紀]]以降のことである。鐘については、[[保延]]7年([[1141年]])に[[大和国]]([[奈良県]])の[[金峯山寺]]の鐘が勧進僧[[道寂]]の勧進によって作られており、国家管理の橋であった[[山城国]]([[京都府]])の[[宇治橋 (宇治市)|宇治橋]]や[[近江国]]([[滋賀県]])[[瀬田の唐橋|勢多橋]]も、12世紀に入ると勧進によって管理・維持がなされるようになっている。また、近江関寺の再興は[[治承]]3年([[1179年]])の南無阿聖人<ref group="注">[[法然]]([[浄土宗]]開祖)ではないかと推定されている。</ref>の勧進によるものである。
 
=== 東大寺大勧進職 ===
治承4年([[1180年]])の[[平氏政権]]による[[南都焼討]]によって[[東大寺]]は灰燼に帰した。[[後白河天皇|後白河法皇]]は直ちに復興の意思を表し、勧進聖らに東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、[[養和]]元年([[1181年]])、その責任者として[[重源]]を'''大勧進職'''(だいかんじんしょく)に任命した。
 
当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も、京都の後白河法皇や[[九条兼実]]、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼している。途中、いくつもの課題もあった<ref group="注">もっとも大きなものは、大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で、塔頭を再建したい重源と住むべき場所である僧房すら失っていた大衆(僧侶)達の間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。</ref>ものの、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された<ref group="注">大仏の開眼供養は文治元年8月28日(1185年9月23日)に開催され、著名な南大門は正治元年(1199年)に完成しているが、全ての作業完成が宣言されたのは焼討から100年以上経た正応2年1月18日(1289年2月9日)のことであった。</ref>。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。
 
以後も東大寺の施設の再建や管理維持のための役職として大勧進職は継続され、[[栄西]](2代目)・[[行勇]](3代目)・[[円爾]](10代目)・[[忍性]](14代目)・[[円観]](24代目)らが任命され、戦国時代に財政難によって一度は廃絶されるも[[江戸時代]]の再建時には[[公慶]]が大勧進職を復興して東大寺の再建を果たしている。
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いっぽう、現在の[[大相撲]]は神社仏閣の再興や造営の費用を捻出するための江戸時代初期の'''勧進相撲'''(かんじんずもう)に端を発している。勧進相撲は、[[京都]]、[[大阪|大坂]]、[[江戸]]の[[三都]]を中心に開かれた。当時、各地に職業的な力士集団が生まれつつあり、勧進相撲に招かれては出場した。しかし、戦国時代の気風が抜けきれず、様々な問題を引き起こしたため、江戸幕府は[[慶安]]元年([[1648年]])に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出している。
 
[[貞享]]から[[元禄]]にかけて、勧進相撲の禁令は随時解かれていき、江戸でも1680年代に興行制限が大幅に緩和され、貞享元年([[1684年]])に[[富岡八幡宮]]で再開されたのが最初といわれており、京都では元禄12年([[1699年]])に[[岡崎神社]]で再開されたという記録がのこり、大坂では、元禄15年(1702年)に現在の南堀江公園([[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]南堀江)で再開されたとの記録がある。なお、おもな力士集団は、[[久保田藩|秋田]]、[[南部藩|南部]]、[[津軽藩|津軽]]、[[仙台藩|仙台]]、大坂、京、[[尾張国|尾張]]、[[紀伊国|紀伊]]、[[讃岐国|讃岐]]、[[播磨国|播磨]]、[[因幡国|因幡]]、[[長崎市|長崎]]、[[肥後国|肥後]]、[[薩摩藩|薩摩]]にあったという。勧進相撲は、江戸相撲、京都相撲、大坂相撲の各々が独立した力士集団をもつのではなく、各国の力士集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという形式<ref group="注">このような形式を合併相撲と呼んだ。</ref>をとった。
 
やがて、[[寛保]]2年([[1742年]])に江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁され、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施するという体制が確立していく。神社仏閣の再興などに資することがなくなっても「勧進相撲」の名称はのこったが、それは[[幕藩体制]]において寺社奉行の許可が必要だったためである。そして、[[1925年]]([[大正]]14年)には東京、大阪の相撲集団が合流し大日本相撲協会(いまの[[日本相撲協会]])へと発展する。形式的にではあるが、「勧進元」という呼称は[[1944年]]([[昭和]]19年)まで残り、その名残として地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶことが多い。
 
== 脚注 ==
{{reflist|group="注"}}
<references/>
 
== 参照 ==
{{reflist}}
 
== 関連項目 ==
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* [http://www4.plala.or.jp/heikebiwa/index.html 平家詞曲研究室]
* [http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss00.html 日本相撲史概略]
* {{Kotobank|勧請|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
 
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