「甘利荘」の版間の差分

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甘利荘に関する確実な初見史料は「平治元年閏五月宝荘厳院領荘注文」『[[東寺百合文書]]』で、宝荘厳院領目録に挙げられている12か所の荘園のうちに見られ、他の東国荘園と同じく繊維製品(白布)が貢上品に挙げられている。
 
平安後期の[[天承]]元年([[1131年]])には[[常陸国]]から[[源義清 (武田冠者)|源義清]]・[[源清光|清光]]親子が甲斐源氏国[[市河荘]]へ配流される。清光一族が子孫は甲府盆地の各地へ荘園管理者として進出するが[[甲斐源氏]]棟梁である一族となった。清光の子・[[武田信義]]は甲斐源氏の棟梁となり、現在の[[韮崎市]]神山町武田の地に居館を構えてたと言われ、進出時期は不明だがいう。信義の子[[一条忠頼]]の頃には甘利荘に拠ったと見考えられている。
 
『[[尊卑分脈]]』によれば、忠頼の子行忠が[[甘利氏]]を称したといわれる。[[江戸時代]]後期に編纂された『[[甲斐国志]]』では[[韮崎市]]旭町上条北割の大輪寺境内を館跡としているが、境内にあたる大輪寺東遺跡の[[発掘調査]]では戦国期の遺物は見られるが中世前期まで遡る遺構や遺物は見られない。甲斐源氏の一族は平安後期の[[治承]]4年([[1180年]])から発生した[[治承・寿永の乱]]においてでは甲斐源氏の一族は活躍し、伊豆の[[源頼朝]]の武家政権に参加するが、『[[吾妻鏡]]』によれば[[元暦]]元年([[1184年]])に一条忠頼は[[鎌倉]]において頼朝に謀殺され、行忠も処刑され甘利荘も没収されたという。
 
その後、甘利荘の在地領主は定かではないが、「武田福寿丸申状」『八坂神社記録』([[紙背文書]])に拠れば、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]初期に没収された[[石和御厨]]の還付を願う[[武田政義]]の子武田福寿丸が、忠頼子孫に甘利荘が還付されたことを先例として挙げている。甲斐一条氏は忠頼死後に[[武田信光]]の子一条信長により継承され、信長は神山町武田に鎮座する[[武田八幡宮]]への大般若経の奉納や、孫である時信の子孫は[[武川衆]]として土着しているなど盆地北西部地域との関わりが深く、甘利荘を領有していた可能性が考えられている。
 
[[鎌倉時代]]には本家の宝荘厳院が衰退したため支配を脱していると考えられているが、「文永八年四月二十七日北条時宗下文」『紀伊三浦文書』は鎌倉時代後期に甘利荘が北条得宗家領であったことを示す文書で、これによれば幕府執権の[[北条時宗]]は武田三郎入道妙意という人物を荘園南の地頭代に任命しており、甘利荘では荘園を分割する[[下地中分]]が行われていたことが確認される。
 
戦国期の文書には「甘利」を関した分割地名が見られる。地頭代の武田妙意については甲斐源氏の一族であると想定されるが、人物の特定については一条信長の子義長説をはじめ諸説ある。
 
戦国期には[[戦国大名]]化した武田氏譜代家臣の[[甘利氏]]がいるが当荘との関わりは不明で、上条東割経塚出土の[[経筒]]銘文などに存在が確認できる。戦国期には甲斐・列島規模で荘園の解体が進み[[郷村]]が成立し、甘利荘も上条と下条に分裂し、解体したとされる。一方で戦国期の知行宛行状・安堵状において旧甘利荘域の郷村では、郷村名に「甘利」を冠する事例が散出しており、戦国期においても旧甘利荘の帰属意識が存在していたと考えられている<ref>平山(1999)、p.335</ref>。