「クレメンス6世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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[[1346年]]、[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の代から対立している[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]を廃位、[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]を皇帝に擁立した。1350年の聖年には多くの巡礼者がローマを訪れたが、教皇がローマに赴く事はなかった。アヴィニョン捕囚が終わる時期は[[1370年]]にクレメンス6世と同名の甥が[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]に選出、ローマへ帰還した[[1377年]]である。
 
なお、1348年1月頃からアヴィニョンはペスト禍にさらされており、この間彼は、新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探る為に医師による死体解剖を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾す勅書を出した。しかし為すすべなく、同年5月にはエトワール・シュル・ローヌ(現ローヌ=アルプ地域圏、ドローム県。アヴィニョンより北北東)に避難した。<ref>『黒死病 ペストの中世史』ジョン・ケリー著、野中邦子訳、中央公論新社、2008年、p.216</ref>
 
== 脚注 ==