「張星賢」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Adb889 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
25行目:
1932年のロサンゼルスオリンピックの代表に選出される。このとき、[[中華民国の歴史|中華民国]]では同じ陸上競技で[[劉長春]]が初のオリンピック代表として参加したが<ref>劉を[[満州国]]のオリンピック代表候補とする動きに劉や中国国内からの反発が生じ、不参加の予定を変更して参加申請を行ったため、大会直前になって選手村に到着した。</ref>、エントリー・選手村への到着・競技への出場のすべてにおいて張が劉よりも先んじる形となり、「張が中国人で最初のオリンピック参加者である」との主張も見られる<ref name="so">蘇嘉祥『運動巨人─張星賢,第一位参加奥運的台湾人』聯經出版社(台湾)、2008年</ref>。オリンピックでは[[400m走|400m]]・[[400メートルハードル|400mハードル]]に出場したが、いずれも予選落ちであった。
 
1933年には[[関東学生陸上競技対校選手権大会]]の400mで優勝(50秒0)このほかにも多くの大会で好記録を残した。早稲田大学卒業後、[[南満州鉄道]]に就職。1936年のベルリンオリンピックでは[[1600mリレー走|4x400mリレー]]のメンバーとして出場したが、このときも予選落ちとなった。その後は満鉄本部に勤務し、社の代表として大会への参加を続ける一方、社内スポーツのトレーニングと推進を担当、年に1度[[テニス]]・[[バレーボール]]・[[卓球]]・[[ラグビー]]の大会を運営した。陸上以外の競技は専門外だったが、短いトレーニングでテニス・バレーボール・ラグビー・サッカーの試合に出ることができ、万能ともいえるスポーツマンだった。満鉄本部に7年勤務した後、自ら願い出て満鉄の関係会社である[[華北交通]]に移り、[[北京市|北京]]の[[前門駅 (中国国鉄)|前門駅]]での実習を経て[[北京駅]]の副駅長に栄転した。その間、華北地区の陸上競技大会に関わり、「北京選手権大会」を扱ったこともあった<ref name="so"/>。
 
第二次大戦後の1946年5月に台湾に戻り、台中師範学校(現・[[国立台中教育大学]])の教員となる。張はすでに36歳であったがなお現役を続行し、同年10月の第1回台湾省運動大会では三段跳び・[[十種競技]]・4x100mリレーに優勝。翌年の第2回大会でも[[走り幅跳び]]・三段跳び・[[100mハードル]]・[[400mハードル]]に出場し、1種目で優勝、3種目に2位という成績を収める。1948年5月、台湾の復帰後初となった全国運動大会([[上海市|上海]])に台湾省代表として参加、個人競技3種目と団体競技3種目に出場し、三段跳びで2位、走り幅跳びで3位となる。これを最後に現役生活を退いた。
42行目:
[[Category:日本統治時代の台湾の人物]]
[[Category:台湾の陸上競技選手]]
[[Category:短距離走の選手]]
[[Category:陸上競技指導者]]
[[Category:野球に関する人物]]
[[Category:早稲田大学出身の人物]]
[[Category:台中市出身の人物]]
[[Category:1910年生]]