「ウラジーミル2世モノマフ」の版間の差分

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==生涯==
相次ぐ[[内乱]]や外冦で衰えていた大公国を中興し、後世もっとも人気のあるキエフ大公となった。父は[[フセヴォロド1世]]、母は[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇帝[[コンスタンティノス9世モノマコス]]の娘。[[ヤロスラフ1世]]の孫。息子に[[ムスチスラフ1世]]、[[ユーリー・ドルゴルーキー]]がいる。ウラジーミルは[[ポーロヴェツ]]族(キプチャクないしはクマン)との戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。モノマフのあだ名は、母方の祖父にあたる[[東ローマ帝国|東ローマ]]皇帝[[コンスタンティノス9世モノマコス]]にちなむ。ウラジーミルは母方の系譜を通じて東ローマ皇帝家さらには[[ロマノス1世レカペノス]]やアルメニア出身の[[レオーン5世]]の血筋に属していた。これは外交面で大きな利点となった。
 
先代のキエフ大公[[スヴャトポルク2世]]とは[[従兄弟]]の関係になる。スヴャトポルクの治世中は、有力な諸公の一人として、緊張した対立関係にあった。1093年以降、ウラジーミルは、自らの相続地である[[ペレヤスラヴリ・ルースキー]]のほか、北方の[[スズダリ]]、[[ロストフ]]を支配し、のちに大公国の首都となる[[ウラジーミル_(ウラジーミル州)|ウラジーミル]]を含め、いくつかの都市を建設した。また内紛を解消し[[遊牧民]]との戦いに備えることを目的とした諸公会議を3度組織した。キエフ・ルーシでは兄弟への分割相続が行われ領地の相続権を争う内紛が絶えなかった。1097年[[リューベチ諸公会議|リューベチでの諸公会議]]で、それぞれの相続地を現状固定する合意が結ばれた。しかしその後も諸公同士の内紛は続いた。1096年には、スヴャトポルクに従いポーロヴェツ族の遠征にも同行した。
 
1113年スヴャトポルクが没すると、キエフの住民はただちに暴動を起こし、ウラジーミルの即位を求めた。ウラジーミルはキエフに平和裡に入城し、以後1125年まで公位を保った。ウラジーミルは精力的に活動した。彼自身の言葉によれば、生涯に「大きな遠征を83回行った」。また内政面では、曽祖父[[ヤロスラフ1世]]の作った法規[[ルースカヤ・プラウダ]]を詳細化し補完する「モノマフの法典」を作った。ウラジーミルは服属しない諸公から領地を没収し、息子たちに与えることで、最終的に国土の3分の4を支配下に置いた。ウラジーミルの死後は息子[[ムスチスラフ1世]]が後を継ぎ、公国の安定を維持した。