「フィリップ2世 (フランス王)」の版間の差分
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最大の問題は、前王時代から続くプランタジネット家との抗争であった。前王時代から、ヘンリー2世とその息子達が不仲なことを利用する方策が取られており、フィリップ2世もこの方策を受け継いだ。元々フィリップ2世とプランタジネット家の息子達とは兄弟のような関係であり(ルイ7世とアリエノールの間に生まれた共通の異母姉・異父姉を持つ)、特に4男のブルターニュ公[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジョフロワ]](ジェフリー)と親しく、一時は兄弟同様に過ごした。
[[1186年]]にジョフロワが馬上槍試合で死去すると、今度はジョフロワの兄[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]と親しくなった。[[1188年]]に再びヘンリー2世との戦争が始まると、リチャードに父への謀反を起こさせ、ヘンリー2世を死に追いやることに成功した。しかし、跡を継いだ
フランスへ戻ると間もなく、伝統的政策としてリチャード1世の弟[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の王位簒奪を扇動した。そしてノルマンディ各地を占領していった。そうしたジョンとフィリップの行動について報告を受けたリチャードは、サラディンとの間で和平を成立させ、急ぎ帰国の途についた。リチャード
リチャード1世はイングランドに戻るとすぐにジョンを屈服させ、捕囚中にフィリップ2世に奪われたフランス領土([[ヴェクサン]]等)を回復すべくフランスに渡った。フィリップ2世はアキテーヌ公領の諸侯を扇動し、リチャード1世に反乱させるなどをして対抗するも、戦上手なリチャードには圧倒された。殊に1194年7月3日、ヴァンドーム地方フレトヴァルの戦いでは金庫や公文書まで捨ておいての逃走を強いられる程の大敗を喫する。1196年のガイヨン条約ではジソールを除く占領地の全てをリチャードに返還した。しかし[[1199年]]にリチャードはアテキーヌ公領シャリュで戦死し、甥のブルターニュ公[[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アルテュール1世]](アーサー)との争いの中でジョンがイングランド王となった。
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