「北島忠治」の版間の差分

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明治OB達は皆、口を揃えて「厳しくも温かい人柄」であったと伝えている。また監督が幅をきかせていた他の大学と違い、グラウンド上では大抵学生の判断に任せていたが、手抜きは許さなかった。また見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。北島がラグビーを通じて目指したものは人格陶冶、社会に恥じない人間を育てることであった。それを示す例として、ラグビー部寮が火災で焼失した際、「家は建てられるが部を再建することは困難である」と新宿の自宅を売って再建したという。
 
「重戦車・明治ラグビー」のために生き、没した生涯であった。30代前半で禁酒、しかし、1日100本のヘビースモーカーの生涯でもあった。チームがトライを取るたび、また取られるたびにテレビ画面に映る北島は、泰然とたばこをふかす姿であった。それがまた彼の魅力を醸し出していた。また、北島の臨終の言葉は「明治、前へ・・・」であったことを北島の妻が明かした。
 
[[1986年]]には[[吉川英治文化賞]]を、1991年には文部省からスポーツ功労者表彰を受ける。墓所は[[八王子市]]の常修寺。
監督在任中1300名の部員を育てた。1996年の早明戦では喪を意味する黒襟のジャージで選手は戦い接戦の末、早稲田ゴール前でスクラム認定トライで逆転勝ちをした。
 
注:「ノーサイド - 91歳の青春・北島忠治監督物語」(1991年/日本[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]])北島役:[[ハナ肇]]では、「めいじ、まいえ!」と発声していた。
 
== 練習方法 ==